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『カー=ディア』の話が聞きたい、ですか? それは構いませんが……失礼、どちら様でしょうか? あぁ、なるほど。えぇ、最近はめっきり、こういった機会はありませんでした。今からちょうど3年前は、あなたのような人――人々の好奇心を煽り立てる業種の方ですね――から質問攻めにされていましたけれど。当時はそれなりに話題になってしまったらしいですが、今になって私の話なんて聞きたがる人がいるとは思いませんでしたよ。その道の方なら、私がどの様に呼ばれているのか、よくご存知でしょう? はぁ、わかりました――――ふふ、奇特な方ですね。
これからお話することは、世間一般的には『世迷い言』『妄言』『嘘っぱち』です。しかし、私にとってはただ一つの『真実』であり――――文字通り、『夢見た世界』で手にした宝物です。
本題に入る前に――あなたには不要かもしれませんけれど――少々、身の上話をさせていただきましょう。でなければ、私がどのようにして『カー=ディア』に流れ着いたのか、正しくご理解いただけないかと思いますので。
私は、何の変哲もない一人のサラリーマンでした。一般的に『滑り止め』と呼ばれるような高校になんとか合格し、凡庸な成績を納め、可もなく不可もなしといった素行で日常を送り、今現在でも友人だと胸を張って言えるような交流関係も持たず――自分で言っておいてなんですが、少々情けないですね――とにかく、どんな色付きを見せることもないまま、私の学生生活は瞬く間に終わりました。大学へ進学するほどの学力はなく、就職先に大した希望も持ち合わせておらず。お世話になった教官のつてを頼りに、小さな町工場の製造工として働くことが決まりました。
えぇ、こんな私ですが、小さな頃は夢がありましたよ。いわゆる冒険家というやつです。現実離れした道なき未知の世界を、自身の足と知恵と勇気を持って切り開く姿に、幼子心が大きく刺激されたのを覚えています。
そんな夢見る少年がリアルを知ったのは、中学生になってすぐの頃でしたね――――そんな冒険は存在しない。安定した収入のある職についた方がいい。現実を見ろ。それが当たり前で、それが社会だ――――嫌というほどそんな言葉を耳にしていると、翼をもがれ地に落ちた鳥の心情が浮かんだものです。
失礼、脱線してしまいましたね。話を戻すとしましょう。とにかく、私はただ『なんとなく』生きていました。労働力として、いくらでも替えがきく歯車となって。当時の仕事に対して不誠実で、人間関係は不適当で、唯一の娯楽として週末に卓球場で汗を流す。きっと『ありふれた人間』の中の一人だったでしょう。
あの日は、そんな生活を続けて2年ほど過ぎた、隙間風に凍える冬の、土曜日でした。えぇ、よく覚えていますよ。土曜日はマンションの隣人が夜通し、大きな声で歌っていたんです。いえ、不快ではありませんでしたね。透き通った芯のある女性の声なんですよ。色んな曲を歌っていたと思いますけれど、一曲だけ。何度も何度も、繰り返し歌っている曲があったんです。はじめは知らない曲だったんですが、その頃には歌詞まで全部覚えちゃって。タイトルも調べましたね。『Dreamer』ってご存じです? ――っと、また脱線が始まってしまいますね、すみません。
えぇっと、そうだ。とにかく、その土曜日の夜に、夢を見たんですよ。子供の頃の夢の、夢を。工場で煤だらけの服を纏った、油臭い、死んだ魚のような目をボサボサの髪で隠した私ではなく、快活に整えられた短髪で、リュックサックを元気いっぱいに背負い、キラキラとした瞳で、見るもの全てを興味津々に見つめてはしゃぐ、私だった少年の姿を。
次の朝、目元の酷さに気がついた私はひとまず顔を洗って、手近にあったハサミで髪をザクザクと切り取り、修学旅行で活躍した大きめのバッグに適当な荷物を詰め込んで、家を、飛び出したんです。当時の私が何を考えていたのか、正直今でもよくわかりません。いろんな感情の泡が心の器に浮かんでは弾け、混ざり、溶け合って、見たこと無い色に滲んでいたと思います。
とまぁ、どんなに美談のように偽ったところで、私がしたことはただの夜逃げです。正確には朝逃げでしょうか? 数日と立たないうちに騒ぎになり、捜索届を受理した不機嫌そうな警官に追い立てられ…………あの日常に戻りたくない一心で、私は必死に逃げ回り――正気を疑われるかもしれませんが――飛び込んだんですよ、海に。真冬の海というのは、体を動かすこともままならないほどに凍てついて、どっぷりと海水を飲み込んだ衣服は、氷でできているのかと錯覚するほどでした。冷気と波に瞬く間に体力を奪われて、私はすぐに意識を手放してしまいました。
次に目を覚ましたのは、えぇっと、直感的に言ってしまえば『氷の家』でした――――おや、笑わないんですか? そう、ですか。はい、もちろん。嘘はついていません。青みがかったガラスを張り巡らせたような、壁も床もツルツルとしていて、とてもひんやりとしていました。不思議と、『ここは家だ』ってわかるんです。私が横たわっていたのは、不思議な弾力のある、ウォーターベッドみたいな感覚の寝台で、かけられていた布団は、まるでオーロラを手に取っているかのような色彩でした。
家の外に出てみると、そこに広がっていたのは、『氷の国』としか言い表せない世界でした。地面は南極大陸のように氷張りで、流氷のようになっている裂け目から、薄桃色の鱗を煌めかせながら、見たこともない魚が跳ねているんです。美しく整えられた――不思議と足を滑らせることが無い様に――道路を往来する人の数は多く、まるで私が昔からの友人であるかのように、親しく言葉を交わし労いました。採れたての桃色魚――彼らは『トル=シア』と呼んでいました――はそのまま鱗を落として生のまま食べられて、ほんのりと感じる不思議な甘さがありました。
極めつけは、エメラルドグリーンの光沢を放つ柱が聳え立つ宮殿でしょうか。見上げるほどに高い――100mは超えていたでしょうか――4本の氷柱に支えられた王宮は、中世の西欧を彷彿とさせるクラシカルな氷煉瓦造りで、10mを超えるであろう門は、石英のように透き通った薄紅の氷で作られていました。通路を見守る衛兵は、階級毎に赤・緑・紫・白といった色彩鮮やかな、しかしそれらも全て氷から生まれた鎧を纏い、私を王の間へと誘いました。
玉座に腰掛けていたのは、驚くほどに幼い少女――顔は見えなかったので、恐らく、ですが――で、無邪気で快活な声の中に、はっきりとした自信と威厳を滲ませながら、私にこの国が『カー=ディア』と呼ばれる場所であり、凍える様な冬の合間にだけ、特定の人物のみが訪れることができることを明かしました。
私は『カー=ディア』に足を踏み入れた冒険家として、大層な歓迎を受けることになりました。七色に煌めく氷の冠を載せ、水と氷の狭間にある紫色の素材――正確な表現が思いつかないので、そう呼ばせていただきます――で作られた不思議な柔らかさの装束を纏い、硬質ながら足に負担を一切感じない、翡翠色の氷を削ったブーツを履いて過ごしました。氷の国は平穏そのものでした。一見すると、冷たく、凍えるような冬の世界そのものですが、人々は皆暖かく、活気に満ち溢れていました。
私は、幼い頃に夢見た世界にいるような気がしてなりませんでした。未知の世界にたどり着き、その果てにいる人々と親交を深める、壮大なアドベンチャー。ページの中の主人公に、今まさに自分がなっていると感じ、十数年ぶりに心が沸き立つのをひしひしと感じました。
2ヶ月ほど幸福に満ちた生活を過ごした後、私は『カー=ディア』を去ることを決めました。きっと世界にはもっとたくさんの冒険があり、自分はそれを追い求める権利がある、と。社会や常識に縛られず、未知なる輝きを追い求めることができる、と。幼き日に見た、小説の中の世界を旅する主人公の様に。真っ当な正気を持つ如何なる生命をも拒み続ける遥かなる黒き霊峰群。その果てにそびえ立つ名状しがたき頂までに足を踏み入れた、偉大なる英雄のように。
身に纏っていた来客用の装束を返却し、着の身着のままの姿へと戻り、古ぼけた希望に溢れた鞄を抱え、幼き女王に別れを告げたのです。私の心には、間違いなく炎が灯っていたのでしょう。現実という社会に揉まれ、掠れ消えてしまっていた、夢という炎が。
異変が起きたのはその時です。女王の住まう宮殿が、いえ、『カー=ディア』全体が大きく波打ち、揺すられ、跳ね周り、崩れ落ちていく轟音が鳴り響いたのは。困惑する私に、崩落する国の主はさも楽しげに、歌を一節、口ずさみました。その声色に驚愕し息を呑む暇すらなく、氷の世界『カー=ディア』は、瞬く間に溶け落ち、飛沫を上げ、渦となって私を飲み込み、凍てつく大海原へと、この身を放り出しました。最も、大渦に巻かれる中で意識が途切れたのですが。
さて、この次に目を覚ましてからのことは、お話するまでもありませんよね? えぇ、そうです。今から3年前、遥か南の海で漂流している私を、偶然通りかかった保安庁の巡視船が救助したという話に繋がります――――いかがでしたか? やはり、子供が考えたようなおとぎ話に聞こえますか?
はい、それは私も不可解に感じていますよ。私を拾い上げてくれた、今の私の上司は、私が目を覚ます2ヶ月前にはすでに救助していたというのですから。それから私が目を覚ますまでの間、生死の境を彷徨い続けていたのだ、とも。
この話を、あなたがどの様に脚色しても構いませんよ。今更こんなゴシップにもならない与太話が、話題に上がるとは到底思えませんので――――はい? はぁ……そうですか。ありのまま、ですか? え、えぇ、構いませんよ。本当に、変わった人ですね。
メッセージ、ですか? うーん、困りましたね……あぁ、そうだ。私が愛する歌の一節でもよろしいでしょうか? わかりました、それでは……
心に灯せ 夢の炎を 忘れた想いを 照らし出せ
そこは 『カー=ディア』 夢見た世界
ホントの自分に 出会う場所
楽曲『Dreamer』より抜粋
著者:『週間真実』 珠雨
表題:夢見た世界を探し求める青年の真実
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