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第四章 春
第四章 春 6/24
「結局、私もここまで生きてしまったのですね」 目を閉じたまま、僕の目の前に重々しく横になった彼女は言った。 時間の経過によってか、黒く翳った様な色をした小屋にぼんやりと僕は居た。あのチロルの情景とは対照的な場所だった。 落ち込んだ雰囲気の室内とは裏腹に、少しばかり開かれた引き戸の向こうには暖かな春が棲んでいた。差し込むその光が照らす髪は艶やかで、かえって眠るように横たわる女性の姿はあでやかにさえ見えた。 本当に死んでしまうのか、不思議に思った。そしてそっと顔を覗き込んで、彼女の頬に僕の翳を落とした時、ようやく初めて”彼女は死んでしまうのだ”と感じたのだった。 それほどまでに彼女は何処までも美麗で、瞳を閉じた時でさえ脳裏に残像が浮かぶほどに、印象深かった。
「私は生きていたのでしょうか。何かを持って、それを大切に愛せていたのでしょうか」
「私は、本当に生きていたのでしょうか」
彼女は少し寂しそうに、弱々しくそう言った。
“あぁ、愛していたとも。生きていたとも。”
これから死んでしまう彼女には無力だ、そう思うことも忘れて彼女の手を握った。
冷たかった。
知っていました、少しからかいたかったのです。と彼女は言っていたずらに笑った。けれど彼女は安心したような暖かい微笑みを浮かべていた。
”君はこれから何処へ行くのかい”
そういうと、小さくふふっ、と笑った。 それは風がいたずらに草花を揺らすように。
「私は遠く、遠く鳥のように飛んでいくだけですよ。かつてそうだったように」
心配しなくとも、いずれ迎えにきますから。と続けて彼女は言った。僕は少し躍起になって
“本当かね、迎えにくるのかね”
と、言った。
返事はもう無かった。
それから暫く待ってみても、返事は無かった。
春風が彼女の髪を揺らすたびに声をかけてみても流れるのは、こぼれるのは僕の涙と時間ばかりだった。
黒い木目調の床に雫ばかりが染み込んだ。
それから、不意に冬眠から覚める動物のように、春の陽気に彼女を包めば、暖かな景色に触れれば、またその目を開いてくれるかもしれない、そう思い、僕は引き戸を開こうと正座を崩した。足がじんわり、と痺れたが慣れたものだった。
すっかり2人の形に馴染んだ取手に手を掛けて、やけに重い戸を開いた。暖かな風が室内にぼう、と吹き込んだ。
すると、その風にのって桜の花びらが一枚、小屋に舞い込んだ。
それははらはらと宙を舞って、彼女の目尻にひらひらと落ちた。
春陽に照らされて涙のように、その花は彼女の目元で淡く光っていた。
彼女は死んでしまった、と思った。
扉枠のむこうで、淡紅色の桜が散っていた。
僕はぼんやりと立ちすくんで、散っていく桜の花びらが流れる空を眺めた。
あぁ、君のゆく場所というのは
きっとこの暖かい空なんだろう。
そんな、夢を見た。
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