また来るからね

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返事が返ってこないことは分かっている。 だけど私は声をかける。 「また来るからね」 何年も寝たきりで意識不明だと思われていた人が、目を覚ました後に語ったという話を聞いたことがある。 目を開ける力がなかった。 口を開く力がなかった。 腕を上げる力がなかった。 身体を動かそうとしても力が入らなかった。 だけど、ずっと意識はあった。 声は聞こえていた。 本当にあった話なのか、物語だったか。 それは覚えていない。 だけど私は、この話を信じている。 聴覚が一番最後まで残るって話も、聞いたことがあるし。 だから私は病室を出る時、母に声をかける。 「また来るからね」 母の返事がなくても良いのだ。 私はまた来る。 そのことを母が知って、安心してくれれば良い。 寂しがらなければ、それで良い。 隣のベッドの人だって眠ったままだけど、私の声が聞こえているかもしれない。 うるさくないように、私は母の耳元に顔を近づけて話す。 母の顔を至近距離で見たせいで、母の口元に一本だけ、ひょろっと白い毛が伸びているのが見えた。 あのお洒落だった母が、ヒゲを生やしている所を医師や看護師に見られるなんて、耐えがたいだろう。 しかも白髪だなんて。 バッグの中から携帯用の裁縫セットを取り出し、小さなハサミを手に取る。 母のヒゲを出来るだけ目立たないように、根本からカットしてあげる。 ヒゲが伸びるんだ。 ちゃんと生きてるじゃない。 そう思うと涙が出てきた。 母が聞いているかもしれないとか思いながら、母が生きていると思えていなかったのは私じゃない。 ヒゲが伸びて良かった。 母が生きていると、実感できて良かった。
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