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結
「不破さんに逃げられちゃったからさ。あんたが私の夢を叶えてよ」
後半は冗談のつもりで言ったのに、ヨータは信じられないことを聞いたとばかりに目を見開いた。
「婚活男と別れたのか!? お、俺のせいか……!?」
「いや、違うよ。元の奥さんと復縁するんだって」
「……………………」
事の真偽を計りかねているのか、ヨータは考え込んでいる。やがて結論が出たのか、奴は顔を上げた。
「お、俺、なんでもするよ。みゃー姉ちゃんのそばにいられるなら、なんでもする!」
「ほーう?」
そういえば――。
思い出す。婚活を始めるにあたり、ネットなどで男性の本音に触れる機会がたくさんあったのだけど、その中でも結婚について否定的な一群はこう言ってたっけ。
『結婚なんて人生の墓場』、それから――。
「じゃ、あんたは、私と生まれてくる子供のATMになってくれるのね?」
「ATMなんて、そんな」
ほらやっぱり、この期に及んで尻込みする。まあヨータはまだ若いし、自由でいたいよねえ。
失笑しかけた私の肩を、ほかでもないヨータががしっと掴んだ。
私は思わず、尻もちをつく。
「そんな高級なもんでなくていい! 俺、奴隷になるよ! 俺のもの、全部やる! 俺の稼いだ金も、時間も、全部やるから! だから俺の、俺だけのみゃー姉ちゃんになってくれ! お願いだから! お願いだから……!」
しかし、奴隷とは――。ATM扱いよりもヒドイ。いや、ムゴイではないか。
中腰になったヨータは、私の肩を持ったまま、押し倒さん勢いでぐいぐい迫ってくる。
欲しいのは、奴隷じゃなくて、パートナーなんだけど。
そう、私の望みを、願いを、目標を達成させてくれるなら、誰だっていい。
――だったら、ヨータでも、いっか。
「ごめん。あのときは、本当にごめん。無理矢理して、ごめん……」
「もういいよ……」
私がそう言うと、ヨータは私の膝に顔を埋めるようにして、おいおい泣き出した。
情けないし、泣くくらいならやるなよとは思うが……。本来は優しくて臆病な子だから、やってしまったあとはきっと後悔して、死にたいような気分を味わっていたことだろう。
私はやれやれと、ヨータの頭を撫でてやった。
「しっかし、私みたいなのがいいって、ヨータも変わってるね」
「うん……。俺、みゃー姉ちゃんみたいな、ちょっとおっかない女の人じゃないと、ときめかないみたいなんだ」
なんだそれ、失礼過ぎないか。
私は、調子に乗って甘えてくるヨータを、ぽかっと殴った。
もちろん、すぐに結婚するわけにはいかなかった。ヨータが大学院を卒業し、就職して安定した収入を得るようになるまでは、私もバリバリと身を粉にして働いた。そしてヨータが社会人として新人扱いではなくなる時分に、私たちは籍を入れた。その頃には私の通帳には、なかなかの額の残高が印字されるようになっていた。
ヨータと夫婦になって、ほどなく私は妊娠。かねてよりの希望どおり、私は職場を去った。そして第一子出産までの間に、自分の貯金を頭金にして、実家近くにマイホームを買ったのだ。
上月家の玄関が、にわかに賑やかになった。小さな子供のはしゃぐ声に、それを穏やかに制止する声。
「ただいまー」
元気な男の子の手を引き、橘 葉多がリビングへ現われる。
二人の幼子を育てながら、仕事だって忙しいだろうに、光也の目に写る幼馴染のヨータの顔は、いつもつやつやと血色がいい。
「かーちゃん!」
ヨータたちの長男は都を見つけると、喜び勇んで駆けていった。
やはりお母さんが一番なのだ。その様子に苦笑したあと、ヨータは長いつき合いの光也に挨拶を寄越した。
「おー。光也、久しぶり」
「ういっす」
互いの近況を報告し合ってから、光也はヨータに尋ねた。
「結婚生活はどうよ? そろそろ飽きてきたんじゃないの? なにしろおまえと姉ちゃんは、昔からずーっと一緒だったんだからな~」
「いやあ、最高だよぉ~」
意地悪を言ったつもりなのに効果はなく、ヨータは臆面もなくにまにまと頬を緩めた。高収入なうえに福利厚生バッチリの超一流メーカーに勤め、業界ではイケメンジーニアスエンジニア(笑)との呼び声高い男が、自分の妻について語る際はこのザマである。
「俺なんて仕事に行って、帰ってきたら子供たちと遊ぶだけで、あとのことはみゃーさんが全部やってくれるんだからなあ~」
いつの間にかそばに来ていた、ヨータの第二子にして長女の麻衣子が、口を挟む。
「うちはねえ、お母さんばっかり働いてるんだよー。お父さんはゴミ捨てとお風呂洗うだけー」
「お父さん、土日はお掃除とお買いものもしてるでしょー」
ヨータは麻衣子の柔らかそうなほっぺたをむにむに摘まんで、娘の些細な誤りを正した。
「でもねーお母さん、『お父さんがお外で働いてくれるから、みんな幸せに暮らせるんだよ』っていつも言ってる。だからお父さんに優しくしてあげないといけないんだってー」
娘のいわゆる「イイ話」を聞いた途端、ヨータは涙ぐんだ目を向けて、光也に「な?」と同意を求めた。
光也はうんざりと口をへの字に曲げたが、だが親友も姉も幸せそうでなによりだとも思った。
暴れん坊の長男をいなしながら、都は娘を呼んだ。
「そろそろお寿司屋さん行くから、麻衣子おいで。上着着ないと、寒いからね」
「はーい」
「いーい? 隼人、麻衣子。回ってくるお皿は、自分で取っちゃダメ。光也お兄ちゃんか、お父さんに取ってもらうこと。あと、騒いだら絶対にいけません。約束できますかー?」
「はーい! できまーす!」
二人の子供たちは元気良く手を挙げる。それを満足気に見届けてから、都は夫を手招きした。
「ヨータは白子とかアン肝とか、食べちゃダメだよ。この間の健康診断で、尿酸値高かったからね。痛風は嫌でしょ?」
「はーい! 食べませーん!」
ヨータもまた、元気良く手を挙げた。
――このノリには、つき合いきれない……。
光也は姉一家を遠巻きに眺めつつ、しかしこうも思った。
こんなにもいきいきと幸福に過ごせるのならば、奴隷の生活も悪くなさそうだ。
――否。
自分の親友は奴隷どころか、ただの勝ち組じゃないか、と。
~ 終 ~
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