教室で染まれ

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 手には、二列にわたって本の名前が並べられているリスト。これと教室の後ろにある本棚を見比べる。リストに載ってる本があれば、タイトルの横の欄にチェック。  二列目最後の欄にレ点を入れた。チェック欄に空白はない。よし、これで終わり。あとはこのリストを図書室の提出ボックスに入れるだけだ。  リストとボールペンを棚の上に置いて伸びをしていると、背後で引き戸が開いた。  振り返って、どきりとした。  光本陽葵(みつもとひまり)。  この学校では知らない人のほうが少ない存在。  スクールカースト最上位の人たちの名前はクラスや学年の垣根を越えて耳に届くものだけど、彼女の場合は、その美貌から名が知れ渡っている。  光本さんは「お疲れ」と言うと、戸を閉める。帰宅部なのに、まだ残ってるなんて。忘れ物かな。 ……と思ったけど、光本さんは真ん中の列にある自分の席には向かわず、真っすぐ歩いてくる。私の前で止まると、動かなくなった。長いまつ毛に縁どられた瞳で、じっと私を眺めている。速くなる鼓動。 「な、なに」  なにか気に障るようなことをしただろうか。話したことはあまりなかったけど、もしかして。  目をうろうろさせていると、ほんのり桜色の唇が笑みの形になり、 「『教室で踊れ』歌って?」  見つめるだけで人を従わせられそうな目つきだ。  しかしその意図に反して私は口をぱくぱくさせるばかりだった。歌うどころか、返事すらできない。  運動部の掛け声をバックに、どこかの教室からトランペットが聞こえる。しばらくして、別の楽器が鳴った。 「恥ずかしい?」  口元は笑っているけど目はそうでもない。声も少し低かった。 「まあ……うん」  おどおどしながらうなずく。必要以上に首を振ってしまった。なんとなく少し上目づかいで顔色をうかがいながら。  光本さんの目もとに笑みが戻る。 「や、大丈夫っしょ。窓閉まってるし」  ちらと振り返って、言う。  今はエアコンのいらない季節だ。昼間は窓が開いてたけど、本棚を点検するときに、風が吹いてきていちいち髪をかき上げるのが面倒になって閉めた。  そもそも、と向き直り、 「楽器とかで紛れて聞こえんでしょ」  聞いてるのはわたしだけだから大丈夫って言いたいんだろうけど、うなずけない。 「てなわけだし」  歌って?  近くの席につく光本さん。腕と同様に長い脚も組んで、こちらを見つめる。       自分の言うことは必ず聞いてもらえることが分かっている、限られた人間だけが浮かべられる笑み。女王様みたい。  全然「てなわけ」じゃない状況だけど、その笑顔は、ガチガチに固まっている首を縦に振らせるには十分すぎた。教室が光本さん専用のライブ会場に変わる。  さりげなく距離を取り、軽く咳払い。自然と視線が小さい頭を越え、ドアの上らへんに移る。  左手で拍子をつけて、ここだというタイミングを探す。 ――ちょっと早くない? ――歌いだしってどう発音してたっけ。  何度も歌ったのに知らない曲のような気がした、のは一瞬で、一度息を吸い込み発声してしまうと、外からの音声も、教室の風景も、刺さる視線も溶けて白くなる。  あとは腹と喉の動くままに声を出し、口と舌が操作するままにメロディーをなぞる。そうしてるうちに、最後まで歌い切っていた。  歌い終わると、天を仰ぐ。目を閉じて大きく息をつき、そのまま天井をぼんやり眺める。  やりきったという達成感もつかの間、色んなことが気になり始めた。  声、裏返ってなかったか。音、外してなかったか。歌詞も間違えたような気がする。しかし頭が真っ白だったため、引っぱり出せる記憶がない。  高校の合格発表のときよりも強い不安と緊張が胸に巣食う。光本さんは、どんな顔をしてるんだろう。  しかし耳に入ったのはパチパチパチパチ、という明るい音だった。 「ムチャぶりだったのに、クオリティ高」  おそるおそるそちらを見やると、放心した様子で手を叩く光本さんがいた。マジックを見て感動とおどろきがないまぜになっている少女みたいな表情。拍手には、純粋に「相手を褒めてる」という意図が込められているような気がする。  体内に一気に熱がこもり、セーラーの袖を肘辺りまでめくる。両手で顔を扇いでいると、 「さすが本人だわ」 「え?」  つい手が止まる。  光本さんも拍手を止めた。また女王様の笑顔で、 「陰山(かげやま)さんて、Sayokoよね?」  確認の形ではあるけれど、「絶対そうだよね?」というニュアンスが多分に含まれていた。 「うん……そうだけど」 「あっさり認めちゃうんだ」 「べつに、隠すつもりないし……」  ただ単に、言う相手がいないだけで。  私は顔を出さず、Sayokoという名義でオリジナル曲を歌って動画投稿サイトにあげている。自分で言うのもなんだけど、終業式間近に出した『教室で踊れ』がTikTokでプチバズりして、一時ちょっとした有名人になっていた。  しかし覆面だからか、ネット上でそれなりの知名度を稼いでも、周りに人が集まるということはない。光本さんと違い、私は休憩時間、ひとりで本を読んだり、作詞したりして過ごしている。現に今だけじゃなくて音楽のテストで、人前で歌う機会はあったけどだれもなにも言ってこなかった。  ふーん、とつまんなそうに返事する光本さん。どんな反応を期待してたのかな。 「……でも、それがどうしたの」  ばくんばくんと跳ねる心臓を押さえるように、つとめて落ち着いてきく。 「え? そりゃあさ……」  光本さんは鞄を開ける。  ごそごそやってる間の数秒間が、何分間にも感じる。  もしかして、私の歌声を録音したスマホだったりして……。 「サイン、欲しい」 ……思い過ごしだった。  出てきたのはミニ色紙と、マッキー。 「……はあ」  さっきの光本さんによる「ふーん」並みの声が出た。 「TikTokで曲知って。めっちゃいいなって思って曲漁ったらさ、沼ってた。『あなたの奴隷(もの)』めっちゃ好き、ちょっと重い感じめっちゃいい」  去年作った『あなたの奴隷』は、人気者に恋する地味な女の子の歌。あなたにならなにされてもいい。私はあなたの奴隷なんだから――という内容だ。 「ヤンデレラブソング特集」的なトピックのサイトに載せられたりはした。けどアコギ一本のこの曲は、フリー画像サイトで拾った、自動販売機の近くの花壇に植わったひまわりの写真をMV代わりにしているためか、他の曲と比べるとそんなに伸びていない(他の曲は絵師さんにより素敵すぎるアニメーションをつけてもらっている)。 「ああ、うん、ありがと……」  なんかもうそれしか言えない。  ね、お願い、と押し付けてくるペンと色紙を受け取る。  光本さんの隣の席に色紙を置き、ペンを手にとる。椅子を引いて、待てよ、と思う。中学まであった習字の時間って、たしか立ったままやってた。……立って書いた方が綺麗に書けるんじゃ。  椅子をしまい、机に置いた真っ白な色紙を見つめる。 ――頑張って描かなきゃだ……。  落ち着いてた鼓動が、また駆け足になる。手汗がひどい。色紙がふやけないように気を付けないと。  心の内を知ってか知らずか光本さんは、椅子を寄せて手元を眺めてくる。聞こえてくる鼻歌は最近出した曲。少し外れてる気もするけど、小鳥のさえずりみたいで耳に心地いい。このまま聴いておきたいな、とも思うけど、余計に手の汗腺が活発になりそう。  キャップをしめてから、習字のときより丁寧に書いた気がするサインを見直す。特に汗による被害はなかったけど、一応色紙をパタパタと扇ぐ。インクのにおいが漂うので、身体を背けながら。  はい、と手渡すと、可愛いが凝縮された顔をぱあっと輝かせて、 「サンキュー」  卒業証書を受け取るみたいに、色紙の隅をつかむ。 「すご、直筆だよ、うわ、すご」  うっとりと色紙を見つめる光本さんは、UFOキャッチャーで大きなぬいぐるみを取って喜んでいる女の子みたい。  その笑顔を目の当たりにしていると、ますます胸が高鳴ってくる。  いや、胸どころか。  身体が心臓になっているみたいだ。どくんどくんという音が、全身に響いている。  もう抑えきれないよ、と言わんばかりに。 「や、まじありがと。家宝にするわ」  満足した様子で色紙をリュックにしまう光本さんに、 「……あのさ」 「なん」  チャックをしめると、こちらを見上げる。サインの余韻で目じりが下がり、頬がゆるんでいた。 「私のこと、個人として見てほしい」 「え、なに。見てるよ」  なにを言い出すかと思えば、みたいなニュアンスで噴き出す。手を裏返して人差し指でこちらを指し、 「陰山さんは前髪長めで可愛いっしょ? 午後の紅茶のストレート、いつも飲んでるっしょ? あと、図書委員で月初めに本棚チェックしてるっしょ?」 「っしょ?」のたびに動く長い人差し指を目で追いながら、結構見てくれてるんだなあ。とこそばゆい気持ちになる。  しかも、可愛いって。「絶対可愛い」とかってコメントはもらったことあるけど、リアルで言われたことはなかった。その初めてが、可愛いの権化だったのは嬉しかったけど……。 「そーなんだけど、そーじゃない」  実物がどうであれ推しを可愛くないと思う人はそういないし、好物とか習慣とか行動を知ってるのも、推し活の延長線でしかないような。やっぱり光本さんにとっての陰山小夜(さよ)はSayokoでしかないんじゃないか。  かなり食い気味に言ってしまったせいで勢いを削がれたのか、光本さんは「どっちよ」とつぶやくようにツッコミを入れる。 「個人として見てほしいっていうのは、意識してほしいってことなの」  今度こそ声が裏返った。息継ぎが多くなり、言葉がどんどん滑り出る。滝みたいな勢いはとどまることを知らずに、奥の奥にしまっていた気持ちまで流し落としてしまった。 「光本さんのこと、好き、だから……」  胸の痛みが最高潮に達する。黄色からオレンジ色に移ろいゆく光が、窓から差し込んでくる。温められる頬。 ――言っちゃった。言ってしまった。 『あなたの奴隷』は、私が恋に落ちた瞬間を、描いている。ありのままを歌いたくて、アコギ一本にしたのだ。  浮かび上がるのは、自動販売機と、ひまわり。ひまわりが女子の姿になる。艶めく茶髪、大きな瞳。プロポーズに勤しむセミたちの鳴き声。  去年の夏休み前。すごく暑い日で、水筒がすぐに空になり、休憩時間に飲み物を買いに行った。教室棟を出てすぐの自販機へ。そこには、すでに先客がいた。  水売り切れじゃん。麦茶もねえな。うわなんにしよ。  きゃあきゃあ言いながらボタンを押す後ろ姿が3つ。右端の、色素の明るい後頭部に、私の目は引き寄せられた。 ――綺麗。  強い日差しが輪を作っている。他の2人の輪っかはがたがたで、枝毛が白く浮いてしまっている。一方、彼女の髪には、そういったむだな光はない。ドリンクを取ろうとかがむと、指どおりがよさそうな髪がさらさら動く。赤茶色の液体で満たされた、ボトルの四角い底が目に入る。  視線に気づいたのか、小さな顔がこちらを向く。日焼け対策はばっちりなのか、紫外線の影響を受けてなさそうな白い肌。  目をそらせなかった。セミの声も、がこんと落ちるペットボトルの音も、頭皮から伝う汗の感覚も、遠くなる。すべての感覚が彼女にひきつけられていた。  しっかり上げれられている、豊かなまつ毛。見るものすべてを射止めそうな、大きな黒目。筋が通った鼻も、顔の作りを良くするのに役立っている。  引き結ばれた薄く整った唇に、なにか話しかけてほしい、って思った。初めて会ったのだからあるわけないのに。  隣の子が振り返る寸前で、慌てて下を向く。湧き出す汗がぱらりと地面に散った。  どしたん陽葵。なんもない。だれあの子。……さあね。てかさ――。  声も足音も遠ざかっていったけど、心はまだ、彼女につながれていた。 ――そっか、あの子が、光本陽葵ちゃん。  ひとりでいるせいで噂を交換する場のない私でも、彼女の存在は知っていた。もっとも、クラスが両端同士だったので、すれ違うこともなかったけど。  その日の前日、休憩時間に私の席の近くで集まっていた男子たちが、光本さんのことを可愛い可愛い言っていた。ニヤケ顔で。 ――噂以上に可愛い……。  噂以上、って表現したのは、にやにやしている男子たちなんかが口にしていい存在じゃないと思ったからだ。彼らの「可愛い」には、性欲が含まれてる。そんなレベルじゃないってこと。  自販機のボタンを押す。がこん。受け取り口から午後の紅茶を取り出し、戻った。教室でクーラーにあたっても、身体の熱はなかなか引かなかった。 「ずっと、願ってた。光本さんに会えますように、って。全校集会とかで、探してたんだよ」  遠目でも視界に入れば、授業で難問に当たろうが、傘を持ってないのに大雨に降られようが、その日は最高にいい日となった。 「同じクラスになれて、めちゃくちゃ浮かれた。席は近くにならなかったけど、ずっと見てたよ、光本さんのこと……」  だから焦ったんだ。教室に入って早々、なにか言いたげに見つめられて。見てくんな、って言われるかと思って。  いつ見ても光本さんは輝いていた。友達と話してるときの、愛想と楽しさを表す笑顔。体育で競技に勝って、喜びと達成感で満ちた笑顔。クラスで意見するときの、拒否権を封じる強気な笑顔。どれもが名前みたいな――太陽がよく似合う花みたいな笑顔だった。  夢の中じゃ、それらが私だけに向けられていて。すべすべしてそうな手を私は何度も取って。  現実では、ありえないって思ってた。ぼっちで二軍以下の女子の私に、クラスの中心にいる可愛い光本さんが好意を向けてくれるなんて。でも実際に拒絶されたらって想像して。  歌うのをためらったのは、外に聞こえるのが恥ずかしかったからじゃない。  相手が光本さんだったからだ。  リュックから色紙とペンが出てきたときは、なあんだって思った。本当にスマホがでてきてもよかった。私の声が、一瞬でも彼女の手元に残るのだから。  たとえ「Sayokoの生歌」とかって、ネットでさらされたとしてもかまわなかった。私のために時間と労力を割いてくれてるということになるから。  光本さんになら、なにをされてもよかった。  だって私は、去年の夏以来あなたの奴隷なんだから。 「嘘ぉ……」  光本さんがつぶやく。不意打ちにキスでもされたみたいに、口元を手で覆う。 「待ってよ。マジ? マジなん……?」  半笑いの顔には、戸惑いが多く混ざっていた。  教室がかげる。太陽が雲に隠れたんだろう。運動部の掛け声も、楽器の音も遠くなり、嫌な鳴り方をする鼓動だけが耳に響く。 ――調子に乗りすぎたな。  汗が噴き出て、口が渇く。 ――ていうかサインあげたから私の気持ちに応えろって、最低すぎない?  情けなすぎて、うつむく。 「めっちゃ両想いじゃん」  耳を疑って、ばっと顔を上げる。  けど目が合わない。  だって彼女は、うつむいていたから。  吹部の合奏が始まる。厳かな導入部分。 「わたしも、覚えてるよ。初めて会ったときのこと。すっごい視線感じて振り返ったら、なんか前髪も長い、スカートも長い、靴下も長い、長い尽くしの子がいるんじゃん」  気になったよね。  声は、合奏と同じメゾピアノ。 「目が合ってんのに、全然そらそうとしないじゃん。それどころか、見てくるじゃん。一部の女子のやっかみ込みの視線とも、男子みたいなヤりたい気持ち込みでの視線とも違う、なんかこう、純粋な視線で?」  友達になりたいんかなって思ってたけどね、と少し笑う。 「とにかく、その長い尽くしちゃんが気になってさ。接点なかったし、結局正体不明のまんま二年になったけど。そしたら教室にいてさ。ビビったよね。で、名前。陰山小夜って聞いて……もうダメだった」  合奏が盛り上がりを見せる。完全にオレンジになった光が、差し込んでくる。ゆっくり顔を上げる光本さん。つるんとした頬が、夕日の色に染まっている。 「名前聞くだけで、可愛い、って思った。こんな純粋に、だれかを可愛いって思ったことなくて、そんな自分にびっくりした」  再び目を伏せる。初恋に照れている小さな女の子みたいなはにかみ方。 「わたしも見てたんだよ、陰山さんのこと」  なにげなくね。 「見れば見るほど可愛いが溢れちゃって。もう話しかければよかったんだけどさ、いじりだって思われるって思って、チキった」  だから、ずっと狙ってた。2人きりになれるチャンスを。からかいなんかじゃないってことをわかってもらうために。 「そろそろ本棚見る時期だって思ってさ、昨日もおとといも来てた。やっとタイミング合ったのに、結局Sayokoをダシにしちゃったな……」  ふう、とため息。眉を下げて笑う。  言っとくけど。 「Sayokoはマジで好き。でも、欲しかったのは、Sayokoのサイン、てよりは陰山さんの直筆。わたしのためだけのね。そもそもあのムチャぶりの目的は、わたしのためだけに歌ってもらうことだった」  音楽のテストんときさ、  声のトーンが落ちる。  顧問から物言いがついたのか、音楽が止んだ。 「陰山さん、めっちゃSayokoだった。噂になってたんだよ。でも、『こないだきいたら、よく言われるけど違うよって言ってたよ』て、嘘ついた」 なのに、ばれてもよさそうだったからさ。イラッとしたよね。  話が途切れる。ちら、ちら、と教室が明るくなったり暗くなったりする。  スピーチテストだったら確実に減点されそうな長さを、彼女は話していた。  私はただ、黙っていた。  黙るしかできなかった。なにも、考えられなかった。  だって、頭の処理が追いつかない。  私が光本さんに惚れたあの日から、光本さんもまた、私のことを意識してくれていた。  Sayokoじゃなくて、陰山小夜を見てくれていた。  そんな、そんな。  濃すぎる情報と、湧き上がってくる感情が、脳内で混ざり合う。それらは、血液になって身体中を回る。濃い液体が心臓に一気に流れ込む。 「独り占めしたいじゃん」  ぽつりとつぶやく。 「わたしのものにしたいじゃん」  もう、ダメだ。  熱い液体を注がれ続けてきた胸が弾けた。  鼻の奥を、急激な痛みが襲う。目から、ぼろぼろとしずくが伝った。息が浅くなり、震える。人は嬉しすぎると泣くんだ。  あなたのものになりたい。 『あなたの奴隷』の歌詞だった。そして、全部だった。  かつてその唇に――「あなた」の唇に、私への言葉が欲しい、と願った。 こんなに素敵なアンサーソングを紡いでもらえるなんて。  意識して言ってくれたのか、本当のところはわからないけど。  合奏が再開される。途中からだった。徐々に盛り上がっていく旋律。  鼻の中は、涙のような液体ですでにいっぱいだ。穴から垂れようとしているものを拭おうと、ティッシュ目当てにポケットを探ろうとした瞬間。ぎい、と目の前の椅子が引かれる音がした。  膝頭同士が一瞬ぶつかり合う。よろめきと、あ、ごめんという言葉が途中で止まる。  背中に回される腕が、柔らかな温もりが、それらを吸収していた。 「もう、泣かんでよ……」  少しおかしそうな、でも愛おしそうな声が耳をなでる。  可愛いなあ。 「ごめん、だって、嬉しくて……」  こわごわ抱きしめ返すと、 「わたしもだから」  声がくぐもってるな、と思った瞬間、抱きしめてくる力が強くなった。少し苦しくなるけど、この苦しさすら愛おしい。  同じくらいの力を、腕に込める。もう言葉はいらなかった。ファンファーレみたいな合奏と、祝福のような掛け声だけが、場を支配する。  光本さんの心音が伝わってくる。私と同じく、速い。  奴隷が女王様と結婚できないように、私の想いが叶うなんて、ありえないって思ってた。  でも今は。遠い存在だった光本さんと、ひとつになっている。  重なり合う鼓動が、混ざり合う体温が、そう実感させてくれている。  教室には、再び夕日が入り込んでいた。その甘くて赤い光は、太陽が沈むまで差し続けていた。私たちを同じ色に染め上げるかのように。 おわり
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加