前編

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前編

  ――お前も一応令嬢なのだから、形だけでも金糸雀を飼いなさい。 父にそう言われ、私は金糸雀商から彼を買い取った。 「…………失礼します」 「……ああ、もうそんな時間なのね。いつも通り、そこのテーブルにセッティングして頂戴」 穏やかな休日の昼下がり。 バトラー服を纏った彼が、キャリーワゴンに色とりどりの茶菓子と食器を乗せ、部屋に入ってきた。 金糸雀――旋律と音節を組み合わせた「歌」と呼ばれる行為を行う、我々にとっての「食糧庫」。 「歌」に含まれるエネルギーを食糧とする我々の文化において、良質な「歌」を生産する金糸雀を育て、所有することは貴族のステータスでもあった。 窓から差し込む柔らかな日光を浴びて、彼の絹糸のように細い黒髪がつやつやと光る。 騒々しい音のひとつも立てずにアフタヌーンティーの支度を進めるその手際は、一年前にこの屋敷に来た時よりもずっと洗練されていた。 「…………」 「……ありがとう。よろしければ、ご一緒にどう?」 開いていた本を閉じ、華やかなセッティングが施されたテーブルに着く。 向かいの椅子を手で示して彼を誘うも、彼はいつも通りぶっきらぼうに視線を逸らした。 「そう……では、いただきます」 小さく呟いて、薔薇の装飾が施されたティーカップに唇をつける。 口に含んだ褐色の液体からは、特に何の味もしなかった。 私は、「歌」を食さない。 それは物好きな美学だとか信念だとかではなく……ただ単に、口にできないのだ。 それでも大商会の令嬢という立場上、金糸雀を飼うことは世間体を保つために必要で。 だから、私は彼を飼っている。 彼は、私にとって都合がよかった。 彼は口数が少なく不愛想だが、私に変に媚びへつらうこともしないので、使用人として扱うのに気兼ねしなくていい。 そして何より――「歌」を発さない。 理由は知らないが……金糸雀商の下にいた頃の彼に「歌いたい?」と問うたところ、少し思案した様子を見せてから、ゆっくり首を横に振ったのだ。 そんな彼が金糸雀商の下に居たことについては思うところがあったものの――どちらにせよ、「歌」を口にすることができない自分にとって、それは非常に都合がよかった。 「……っ、ごほっ」 真っ赤なジャムを乗せたスコーンが喉の水分を奪い、反射的に咳が出る。 すると即座に、隣に控えている彼がグラスに水を注いで差し出してきた。 「……ありがとう。やっぱり駄目ね、次回以降はスコーンは外すように頼まなくちゃ」 ここ最近、口にできるものの幅が急激に狭まっているのを感じる。 ……そもそも、これらは私が口にするべきものではないのだけれど。 こんがりと黄金色に焼き上げたスコーン。 瑞々しいキューカンバーを挟んだ小さなサンドウィッチ。 湯気と共に芳醇な香りを立ちのぼらせる、深い色のダージリン。 これらは全て、金糸雀用の餌だ。 「歌」を食す我々にとって、それはせいぜい「美術品」にはなり得ても、「食品」としての機能を果たす代替品には絶対にならない。 それでもこれらを経口摂取することで得られる栄養素は、歌を口にできない私にとって、辛うじて命を繋ぐために必要なものだった。 「大丈夫ですか」 「ああ、ごめんなさい……ありがとう」 私の肩にストールを掛けてくれた彼に、そっと微笑んでみせる。 不愛想でぶっきらぼうではあるけれど……彼はいろんなことによく気がつく、細やかで優しい子だと感じる。 「……ねえ、貴方」 こんな食生活をしているのだから、私の命はそう長くない。 日増しに細くなる腕がそれを物語っていて、少し怖くなるけれど……それ以上に、私亡き後の彼の未来が心配だった。 「もし、私が居なくなっても……貴方は、自由に生きて頂戴」 主人を亡くした金糸雀の未来はふたつ。 新たな主人の下に引き取られるか、一般の労働者として別のキャリアを歩むか。 中には、主人の遺産を継いで隠居する金糸雀も居るとは聞くが……彼の人生はまだまだ長いから、そういった生活だけではいずれ諸々の限界が来るだろう。 「……滅多なことは言うもんじゃないですよ」 彼は少し眉をしかめ、不機嫌な顔をしている。 この手の話題になるたびにこういう顔をするものだから、彼は本当に温かい子だといつも思うのだ。 「っふふ、ごめんなさいね」 願うなら、彼のこれからを見守って過ごしたいけれど。 でもそれ以上に……彼を買い上げ、その心根の純粋さを知った者の使命として。 これから先、どうか彼が心安らかに過ごせるよう―― 「――っ!」 ぐらり、視界が歪む。 胃の中から何かが這い上がってくるような感覚に思わず口元を押さえるも、こみ上げるものを止められない。 「っ、げほっ! ぐ、ぅっ……!」 先刻飲み下した水や紅茶とは違う――金属のような味がする液体を口の中に感じながら、私の意識は遠のいていく。 「――――!」 途切れる直前の意識が、溶け残った一瞬。 取り乱したような声を、聞いた気がした。  
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