後編

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後編

  マホガニー製のドアを四回ノックしてから、ゆっくりとドアノブを引く。 「……失礼いたします」 主人が眠っているその部屋は、時計の音だけが響く静寂の空間と化していた。 昼には陽射しがきらきら差し込んでいた窓からは、優しい輝きの月明かりが注ぎ込んで足元を照らしている。 数時間前まで華やかに彩られていたテーブルは既に片付けられ、その上には彼女の好きなカーネーションの一輪挿しだけが控え目に立っていた。 ベッドの横に座って様子を見ていたらしい看護師にそっと会釈をする。 すると、看護師は深々と会釈を返し、何かを察したかのようにドアの外へと出ていった。 「……眠っているんですか」 白く清潔なシーツの上に横たわる主人の顔は、普段のそれに輪をかけて真っ白だ。 頬に乗っていた薔薇色は消え失せ、大きくふわふわとした耳の内側も、青ざめたように色を失っている。 今夜が峠――彼女の父が口にしていた言葉を、まざまざと思い知らされる光景だった。 「…………」 ――あの子の傍に居てあげてほしい。 頼まれたのは、それだけだった。 歌うことではなく、傍に居ること。 それは、彼女に生きてほしいと願う父親自身の願いではなく――「歌」を食することが怖いと感じる、彼女の気持ちを慮っての願いだ。 「……ほんと、お人好し星人だよ。あんたらは」 そんないじらしい親子の関係に、他人の俺は何とも言えないむかつきを覚えていた。 フォノヴォアがこの星に来る前、俺は一介のミュージシャンだった。 インディーズバンドであったが故に知名度は高くなかったが、ある程度のファンは居て……メンバーも、毎日がむしゃらに奏でることに喜びを見出していた。 それが変わったのは、フォノヴォアが「歌」を食するという生態が判明して間もなく。 世界中の音楽レーベルが目指す「売れる音楽」の定義が、一瞬にしてすり替わった。 求められるのは音楽そのものではなく、それが有する汎用性、普遍性、情報量。 よりフォノヴォアに好かれる音楽を輩出できるレーベルが、次々と国家公認の金糸雀商へと業態を変えていく。 そんな状況に耐え切れず、志の高いミュージシャンは次々と業界を去り――そのまま、反逆者へと姿を変えていった。 俺が所属していたバンドも、そうやって崩壊した。 メンバーのひとりが現状に耐え切れなくなり、「歌」を用いたクーデターに参加して――人類側の防衛部隊の手で、収監されたのだ。 その気持ちは、痛いくらいに理解ができた。 それは、かつては誇りだったから。 命を削り、燃やし、賭して奏でることが、自分の存在意義だったから。 決して生きるのに必要ではないけれど、心が豊かになるような――そんな「歌」が、愛おしかったから。 けれど、だからこそ。 それが誰かにとって必要不可欠なものとなり――それ故に人を追い込み、傷つけ、害してしまう存在になったという現実を、俺は受け入れられなくて。 あの日、俺は「歌」を辞めたのだ。 「……なあ、あんた。『歌』が食えれば生きられるんだろ」 当然、答えは返ってこない。 僅かに続いているらしい吐息すら、弱々しく部屋の大気に溶けていく。 きっと、彼女は嫌がるだろう。 けれど――彼女が最後に食した「歌」が、苦くて辛くて昏睡してしまうような味であったことが、どうしても受け入れがたくて。 とうの昔に捨てたはずの歌い手としての矜持が、それを許せなかったから。 「嫌なら、飛び起きて止めるなりしてくれよ」 そう呟いて、俺は懐かしい節を口ずさみ始める。 それは、かつての仲間と作った曲でも、フォノヴォアの間で評判がいいナンバーでもなく――幼い頃に母が歌ってくれた、簡単な子守歌だった。 単純な単語で組まれた音節を、何度も何度も繰り返す。 ただ、その頬に薔薇色が戻るように。 深い深い眠りの先、幸せな夢に揺蕩えるように。 そして……朝日と共に、眠りから目覚めることができるように。 いにしえから「歌」に込められ続けていた思いを、丁寧になぞっていく。 ……彼女は、何度も俺のことを「優しい」と言っていたけれど。 俺から言わせれば、彼女のほうがずっと優しい。 彼女はいつだって、お茶の席に俺を誘った。 愛想もない、歌いもしない、ただ言われたことをこなすだけの俺に「ありがとう」と言い続けた。 それが種族の特性であったとしても……それが彼女に備わった優しさであることは、変わらない。 だから、その優しさに免じて、俺は歌う。 聞いたところによると俺の四つ年下だという彼女が――その優しさの全てを、後悔に費やさないことを祈って。 そうして、同じ曲を何周した頃だろうか。 「…………優しい、『歌』ね……」 節と節の間に、微睡みから覚醒した直後のような声が差し込まれた。 「優しく、て……あったかくて……切ない、のに、甘い……」 「……子守歌だからな。親が子の健康を願って奏でる『歌』だ」 「……そう、なのね……だから、こんなにも……」 横たわったままの彼女が、ゆっくりと手をこちらに伸ばす。 その小さな手をそっと受け止めれば、ほんのりと体温を感じることができた。 「『歌』って、こういうものなのね……甘くもなるし、苦くもなる……貴方の分だけではない……歌い継がれてきた、願いの味……」 「……ああ、そうだよ」 願いを音に乗せ、場所と世代を超えて奏で続ける。 それを文化と呼ぶ人も居れば、人の営みと唱える人も居るだろう。 人それぞれ、いろいろな想いがあるけれど、それは全て―― 「すごく、複雑で……大切なものなんだ」 あの日、「歌」を捨てたのは。 こうして誰かのために心から歌える日が来るまで、大切にしまい込むためだったのだろう。 「……ねえ、貴方」 少しの沈黙の後、彼女はきゅっと手に力を込めた。 「貴方が歌いたい歌は、他にもある……?」 それは、内気な少女がお気に入りを見つけたときのような。 その行為を恥じながらも好奇心を抑えられないと言わんばかりの、幼気なおねだり。 「……ああ、たくさん」 その様子が妹のように愛らしいものだから――俺は思わず、頬を緩めた。 俺が「歌」を歌うようになってから、早いもので三年が経った。 俺は変わらず金糸雀で、主人はというと―― 「……ねえ、こっちを見て頂戴! そこの屋台、すごい匂いをさせながらお肉が回転しているわ!」 ――俺の袖をぐいぐいと引きながら、人類向けキッチンカーを指さして目をきらきらさせている。 「あー……ドネルケバブか」 「食べる?」 「なんで……さっき昼飯食ったばっかだし……」 最近、彼女は執拗に俺に何かを食べさせようとする。 それは屋敷での食事の席でもそうだし……こうして彼女の仕事に付き添って外出した際なんて、珍しいものを見たらすぐに買い与えてくる始末だ。 「だって、珍しいものを食べた貴方の反応が面白いんだもの!」 「俺の胃がはち切れるんだけど」 悪びれもせずにそう宣う彼女に、かつての弱り切った面影は見えない。 それもそのはずで、あれから彼女は「歌」を口にするようになり――それどころか、地球上に存在する数多の「歌」が有する文化的背景と栄養素の関係性について研究する、若き博士として活躍しているのだ。 ……ちなみに、俺は助手として連れ回されている。 「まったく……」 俺の制止も聞かずに屋台に走っていってしまったその背を見送りながら、不意に空を見上げる。 雲ひとつない快晴の空に、飛行機雲が一筋。 燦燦と輝く太陽を浴びて、彼女の白いワンピースとふわふわの耳がきらきら輝く。 「……今日は、あの曲にするか」 今日の彼女に捧げたい「歌」に想いを馳せて――俺は練習がてら、鼻歌を奏で始めるのだった。  
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