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古びた舟を直してあった。それを夜の海に向けてセイレーンと一緒に乗り込み、満月の光が降り注ぐ中を漕ぎだす。
セイレーンは海里が何をしようとしているのかわからず、首を捻っていた。
――自分の存在が消えかかっていることには気付いているね。
問われてセイレーンはびくりと体を強張らせた。
――僕と一緒にいるせいだ。
セイレーンは首を振る。セイレーンは人間ほど賢くはないけれど、自分の存在が何によって成立させられているかは本能で察していた。それでもここを離れようとしないのは、海里のそばにいたいからだ。
いつだってここから離れて狩りに行けるのにそうしなかった。「セイレーン」という伝説であるよりも、興味深い人間である海里のそばにいるほうが好きだったからだ。
だからもともと、歌えなくても良いとさえ思っていた。それなのに海里は好きに歌える場所まで用意してくれた。セイレーンにとっては、それで充分だった。
消えたとしても満足だと伝える。
世界の伝説のひとつがひっそりと絶滅するだけのこと。
すると海里は首を振った。
――僕はお前には生きていてほしいよ。
そうして船を漕いでいた手を止めて、セイレーンの鳥の体をぎゅっと抱き締めた。
聞こえる、と口の動きだけで言った。
音とは空気を震わせる振動だ。
海里は耳で音を拾うことは出来ないけれど、空気の振動そのものならば、体で受け取ることができる。
昔行った花火大会――そこで海里は、お腹に届く空気の振動を感じた。低く長く響く、空気の振動。海里は体でなら、音を「聴く」ことができるのだ。
今の今まで、忘れていた。
セイレーンの体を抱き締めてみれば、かすかに鼓動の動きを感じることができた。海里は今、セイレーンの命を聴いている。
――歌って、セイレーン。
そう言われてセイレーンは戸惑いを見せた。翼で口を覆いさえする。
海里は少しも曇りのない笑顔を見せた。
――セイレーンが生きていてくれないと、僕はたぶん不幸だ。
セイレーンはまた、首を傾げる。海里の言うことはセイレーンに優しすぎて、いつも理解が及ばない。
自分が歌えば海里は幸せだろうか。そう問えば、海里はうん、と頷いた。
セイレーンは口を覆っていた翼をほどき、その翼で海里をぎゅっと抱き込んだ。近く、もっと近くに来て海里が聴きたいと願う歌声が届くように。
肺いっぱいに息を吸う。
セイレーンは歌った。
月と海と海里の他、誰も聴くことのない歌を懸命に歌った。
海里はセイレーンの体にぴたりと自分の体を寄せながら、ああ、聴こえる――と目を閉じた。
音の高低もどのような調べなのかもわからない。そもそも調べとは何なのかすら、知りはしない。けれどセイレーンが声を響かせていることが伝わってくる。歌声はセイレーンの体内に響き、振動となり、海里の体に歌を伝える。
海里は今、セイレーンの歌を聴いている。
満足だ、と海里は思う。幸せだ、とも思う。
――綺麗な歌だ。
……と伝えようとすれば、セイレーンは瞳から涙をこぼしていた。
自分自身の心臓の振動が弱まっていくのを感じる。それとは逆に、セイレーンの姿がはっきりとしたものへと戻っていく。
――良かった、お前はこれで生きられる。
重くなる瞼を懸命に開けると、セイレーンは次の歌を歌い始めた。
(これはきっと子守歌だ)
セイレーンを子どものようにあやしていた自分が、今は逆にあやされている。それがおかしくて、切ない。
最後に微笑みかけた後にはもう、瞳を開けることができなかった。
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