さよなら、泡沫の歌姫

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ごめん、財布を教室に置いてきちゃったから先帰ってくれ。その一言が言えたら、どんなに楽だっただろうか。昇降口で靴を履き替えた時点で気がついていたのに。  俺は帰路と反対方向に自転車を走らせながら思った。  面倒そうに眉を顰める友人たちの顔が一瞬頭によぎって、ついぞ言い出せずに、俺は全員と別れるまでいつもの帰路を何食わぬ顔で辿った。そしていま、薄暗い通学路をひとり、自転車を走らせている。  学校に辿り着いたと同時に、胃袋が切なく鳴いた。早く帰りたい一心で、学校の駐輪場に自転車を滑り込ませて走る。  部活動に勤しむ学生たちで騒がしい一階を抜け、途端に静かに薄暗くなる二階を奥まで駆け抜けた。一番奥の、より一層静かな教室に滑り込もうと勢いよく駆ける。薄暗い放課に特有の空気の教室に、誰かが残っているとは露とも思わなかった。  だから、俺がそれを聴いてしまったのは、まるきり偶然だったのだ。  はじめ、締め切られた扉からか細く響くその音を耳にした時、その瞬間、俺はそれがなにか理解できなかった。か細いながらも圧倒的な存在感で、脳みそにびりびりと殴るように叩きつけられた。その衝撃で。  それは果たして、歌だった。  俺は財布のことも忘れ、教室の扉の前に立ち尽くした。締め切られた扉の小さな隙間から漏れ出る音に、全ての意識は奪われていた。  上手いなんて、そんな言葉で言い表せるようなものではない。音色というには暴力的なその音は、技巧なんて関係なしに、誰しもに「聴かせる」傲慢さを孕んでいた。声質が、呼吸が、身体の全てが奇跡的に生み出した音——。素人にもわかる。そこにあったのは、圧倒的な才能だった。  じわじわと漏れ出す仄暗い嫉妬心を追い越して湧き出たのは、歓喜の感情だった。  誰なんだろうか、こんな音を持つのは。眩くひかる才能の原石を目にしたくて、俺は一度喉を上下させると、ゆっくり戸に手をかけた。  からから、と音がして戸が開く。心臓の鼓動がやけに煩く騒いだ。  誰か座っている。一番の前の席。黒くて長い、癖っ毛——、弾けるように振り向いたその顔は、 「……日影?」  そこに居たのは、あの「陰子たん」だった。
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