さよなら、泡沫の歌姫

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「う、歌方くん……?」  俺は日影が俺の名前を発したことに驚いた。一度も話したことなんてないのに。そんなことを、あまりに混乱した脳みそは考える。驚くべきところはそこじゃないだろ、と俺の中の冷静な部分が言う。  日影はいつものように下を向いて、ボソボソと何か呟いた。さっきまで、張りがあって強烈な音をこいつが出していたとは思えない。そうだ、なにかの勘違いだったのではないか? そうに違いない。 「ごめん日影、なんか俺、勘違いしてたわ」  俺がそう言うと、日影はやけに安心したような顔をした。 「あ、そうですか……。私、聴かれたかと思って……」  聴かれた? 聴かれたと言ったか?  俺はガックリと肩を落とした。やっぱり、あの宝物みたいな音は、日影のものだったのだ。 「……日影さ、なんか音楽とかやってたの?」  日影は弾かれたように顔をあげて俺を見た。柳の木みたいな髪が横に流れて、日影の顔が現れた。夕焼けのせいか少し赤く染まっていて、目は涙で潤んでいた。  一瞬、ほんの一瞬どきりとする。日影の目を見たのは、初めてだった。可愛いといえるほどではないが、不細工というほどでもないじゃないか、なんて思う。 「やっぱり……っ、聴いて……!?」  桃色に染まっていた頬が、たちまち真っ赤に染まっていく。そうか、きっと日影は、自身に潜む輝きに気づいていないのだ。 「まあ、財布取りに戻ってきて偶然……。でもまあ、……別に下手じゃなかったとおもうけど。何の曲なの? あれ」  下手じゃないどころではない、稀に見る才能だが、俺の心のどこかがなんとなく、日影の才能を素直に教えてやる気にはさせなかったのだ。 「あ、ありがとうございます……、優しい、ですね……。この曲はあの……、えっと、あ、はす、蓮沼くんのバンドの曲で……」  それを聞いて俺はぴんときた。  ははあ、なるほど、こいつ、身の程知らずにも蓮沼に惚れているわけね。  蓮沼は人気者で陽キャで、とにかく女にもてる。性格も良くて運動もできて、勉強もできる蓮沼は、憎たらしいことにギターも弾けて歌もうまいため、軽音部の猛勧誘にあい、いまや校内の人気バンドのボーカルとして名を轟かせている。  その蓮沼が、文化祭でデュエット曲をやるっていうので、大々的にその相方を探しているのだ。よく考えたら、知った曲だった。日影の声が奏でたのは、蓮沼のデュエット曲そのものだったのだ。  蓮沼に惚れてる女なら、誰しもが夢見る。蓮沼のデュエットの相方として、文化祭の花形を飾るのを。しかも、その曲は恋歌ときたもんだ。まあ、蓮沼自体は音楽にかなりストイックなやつだから、大抵の女は諦めるしかないが、あの日影の声なら間違えなく……。 「ふーん、で? 文化祭のやつ、立候補したの?」 「ま、まさかっ! そんな私なんかが選ばれるわけないですし……」  やっぱり、日影が立候補しているはずはないと思っていた。さっきのあれも、練習のつもりなんかじゃなく、蓮沼との晴れ舞台を夢想しながら口ずさんでいただけのことだろうし。  別に俺は日影に、お前の才能ならいけるよ、なんて言ってやるほど優しくはない。正直、どうでもいいし。だから、特になにも言う気はない。  日影の頬は依然と真っ赤だった。窓の外の夕焼けと重なって、日影の頬の色が空に映ったようだった。日影自身が、夕焼けみたいなんて、馬鹿なことを思った。
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