さよなら、泡沫の歌姫

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あれから、俺は日影の秘めた才能など忘れたふりをして、日影は自身の才能に気がつくこともなく、交わることのない日常に戻るはずだった。  なのになぜか、俺と日影は、お互い示し合わせるわけでもないのに、週に一度、金曜日だけ放課後の教室で会うようになっていた。  他愛のない話をして、たまに日影が歌うのを聞いてやるだけ。毎週金曜日、俺はなぜか、それだけの時間のために、わざわざ友人と別れてから再び帰路の逆方向に自転車を走らせることを、いつしか習慣のように思うようになっていたのだ。  日影の才能の原石は、俺に聴かせることで、明らかに輝きを増すようになっていた。いつもは引っ込み事案な日影だが、歌のことになると、誰かに聴かせたくてたまらなくなるようだった。ひとたび歌を聴かせることを慣れてしまうと、日影は俺がせがむまでもなく歌い出す。水を得た魚のように、あるいは野に放たれた猛犬のように、暴力的なまでに強烈で圧迫的な音で、俺を心臓を何度も殴りつけるのだ。  それでも、どうしてもその宝物みたいな才能の輝きにはあらがえず、そうしているうちに、優しかった春の日差しが、いつのまにか照りつけるような眩しさを孕む季節がやってきた。文化祭の日が、近づいていた。  かと言って、日影は蓮沼の相方に立候補する素振りを見せようとしなかったし、俺もあえて勧めることはしなかった。  日影は蓮沼のことが、好きなんだろうと思う。恋をしている、多分。  しかし日影は、蓮沼への想いをはじめから叶わないものだと決めつけているようだった。当然だ。日影と蓮沼じゃ、何もかもが違いすぎる。どう考えても、釣り合わない。  私なんか、とよく日影は言った。俺はそれを聞くたび、どう言うわけか安心していた。変わろうとはしない日影をみて、自分の中に潜む輝きに気がつかない日影をみて、俺は心が落ち着くのを感じていた。  俺はいつしか、日影との秘密の日常を愛おしむようになっていた。日影の才能のきらめきは、幾度となく俺の心臓の柔らかいところを強く殴った。それでも、どう言うわけか自分に自信がない日影の姿に、俺は安らぎを見出していた。日影のことが愛おしかった。自身に眠るきらめきにも気がつかず、叶わぬ恋に暮れる日影の横顔は、どんな美人よりも愛らしく思えた。  俺は何故か、日影なんかを愛おしく思う自分が嫌ではなかったし、日影も恋愛のそれとはまだ違うようだが、俺のことを慕っているように思えた。初めての友人、らしい。  ひょんなことから訪れた日影との日常は、文化祭が終わっても変わらずに続いていくはずだった。あの日、蓮沼が教室に忘れ物さえしなければ。
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