さよなら、泡沫の歌姫

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文化祭まで三週間を迫った金曜日。いつものように、日影の口ずさむ歌を聴きながら、眩しい日差しをカーテン越しに浴びていたら、蓮沼が飛び込んできたのだ。  肩で息をしながら、目は爛々と輝いて、高揚感に頬は真っ赤だった。  俺はしまった、と思った。教室の戸を完全に閉めきれていなかった。日影の宝物みたいな才能に、蓮沼が気がついてしまったことを、俺はすぐにわかった。だって俺も、まるきり同じだったから。 「今のっ、もしかして日影さん……っ!? 今歌ってたの…!」  蓮沼は迷うことなく日影を見た。その瞳は、煌めく才能を見つけた歓喜で瞬いていた。俺はどうしようもなく、心臓が激しく警音を鳴らすのを聞いた。  日影は突然の想い人の乱入に、思考が追いついていないようだった。口を開けたまま、何度も瞬きを繰り返して、やがて助けを求めるように俺をみた。俺はほんの少し、優越感が刺激されるのを感じる。  さて、どう誤魔化してやろうかと口を開こうとしたが、蓮沼はそれよりも早かった。俺の前をさっと通り過ぎた。  日影の手を取る。日影の目がゆっくりと開かれる。蓮沼の上気した頬の色が移るように、日影の頬が紅に染まってゆく。お互いしか見えていなかった、まるで二人だけの空間のように。  全てがスローモーションのようだった。まるで映画かドラマのワンシーンのように、二人の空間だけ色づいていた。 「ごめん、宿題を教室に忘れて取りに来たんだよ、俺。それで聴いちゃって……。日影さん、さっきの曲、うちのバンドの曲だよね……? 俺、デュエット曲を一緒に歌ってくれる人を探してて……、あ、文化祭でなんだけど。日影さんさえ良ければ、日影さんに歌ってほしい。……声、すごく素敵だった。俺、なんか聴いた瞬間ぐわわわって」  やけに早口で話す蓮沼は、変に浮き足立っていた。日影の声にのぼせ上がっているのが、手に取るようにしてわかる。俺はそれをぼんやりと眺めた。眺めることしかできなかった。  日影は憧れの人の体温で、頭がいっぱいのようだった。何度も口を開閉させて、瞬きを繰り返して、それでも、蓮沼からは目が離せないようだった。  俺はどこかで確信していた。日影はこのままじゃ、こいつの誘いを断れない。いくら引っ込み思案でも、ずっと好きだった相手と恋人同士のように隣で歌うなんて、そんな夢が実現する機会をふいにするなんてあり得ない。  日影が蓮沼と歌うことを想像すると、俺の奥深くから何かが湧き上がっているのを感じた。それは感情だった。怒りでも嫉妬でもあるような、仄暗い感情だった。
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