さよなら、泡沫の歌姫

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 蓮沼はまるで嵐のようにやってきて去っていった。日影は夢でも見ていたかのように、ぼんやりとただ瞬きを繰り返していた。俺もあれは、夢であってほしかった。  ふと空を見たら、眩しかった空はいつのまにか真っ赤になってきた。鮮血のような鮮やかな赤が、俺の中までも浸食してくるような心地がする。 「歌方くん、私、あの……」  なんとか人間らしさを取り戻したらしい日影は、しかし、未だに混乱から抜け出せてはいないようだった。  困り眉をさらに下げて、助けを求めるように俺を見る。俺はそれをみても、さっきのように優越感に浸ることはできなかった。むしろ、胸の奥から湧き上がったのは鬱々とした苛立ちだった。 「……なに?」 「私、私、どうすれば……。蓮沼くんのお誘いを受けたい気持ちがあるんですが、でも、……怖いんです」  なるだけ不機嫌そうに聞こえるように応えたが、日影は気にせず続けた。いや、俺の機微を察する余裕がないのだろう、蓮沼のことで頭がいっぱいで。  俺を見上げるその目は、不安や躊躇いを映しながらも、真っ直ぐな光で満ちていた。きっと俺は、背中を押すことを期待されている。  なんだろう、凄くどす暗い感情で身体中が満たされる心地がする。目の前の日影を、傷つけてやりたい、そんな欲望が一度脳裏を掠ると、べっとりとこびりついたように離れなくなった。そのまま、その感情が勝手に口を動かす。 「……じゃあやめておけば? 全校生徒の前で歌うんだよ、恥かくことになる。蓮沼って押し強いし、迷惑だよな。そんなに喋ったこともないんだろ? ……俺は日影が心配だよ」  日影のことが心配だ、なんてとってつけた。本心なんて一つもない。  真っ直ぐに上を向いて俺を見上げていたその瞳はゆっくりと下へ向き、やがて長い癖っ毛が柳の木のようにその顔を見えなくさせた。 「そう、ですよね……。私なんかが……」  明らかに自信を失ったような日影をみて、俺は心のどこかが満たされる心地がした。これでいい。これで日影は、大きな舞台に立とうなんて思えないだろう。  そうだよ、お前はこのままでいいだろ。別に、歌を聴いて欲しいっていうなら俺がいるんだし。観客にしては少ないかもしれないけど、日影には沢山の人の前で歌うなんて、向いてないよ。 「あの、今日は私、帰りますね……。宿題もその、終わってないですし……」  絞り出すように出たその声は、あの強烈な音と同じ声帯から出されたものだとは、やっぱり思えなかった。  人前に出るのが苦手な日影だ。宝物みたいな才能を持っていたとしても、沢山の人の前でそれが発揮できるとは思えない。  日影には俺がいればいいのだ。蓮沼にも誰にも、日影のきらめくあの声を聴かせたくはないのだ。だって日影のあの才能は、俺が見つけたものなんだから。
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