さよなら、泡沫の歌姫

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日影との愛おしい日常は、当たり前のように続いていくと思っていた。しかし、俺はあれ以来、日影とあの教室で会うことはなかった。  うまくタイミングが合わなかった、それだけのはずだけど。  しかし日中の教室で俺たちは他人同然だし、連絡一つしようにも、俺は日影の連絡先を知らない。金曜日、放課後の教室で会わなければ、俺たちにはなんの関わりもないのだ。  あんなにあの日々を愛おしく思っていたのに、切ろうと思えば糸よりも簡単に、ぷつりと切れて戻らない。一度気まずくなったら、それで終わり。そんな程度の関係だったのだ。  それを今俺は、思い知っている。日影は俺に、何も相談しなかった。  幾色にも煌めくライトの下、暗いステージの下にいる俺とは逆の場所に、輝くその彼女が、あの日影とは到底思えなかった。俺の前だけで歌ってくれていた、自信なさげに俯いていた日影とは、到底。  でも、やっぱりこの音は日影のものだ。暴力的なまでに強烈な、圧迫的な存在感。むしろ、俺一人の前で響かせるよりも、その声は活き活きと圧倒的なパワーを孕んでいた。  蓮沼も負けじと声を張り上げている。お互いパワー系の音だがうまく張り合って調和して、俺の心臓までどんと響かせる。  別人のように光る日影に観客の熱気が増していくにつれ、俺のどこが冷静になっていくのを感じた。  日影が輝ける場所はここだったのだ。俺みたいに、なんの取り柄もない人間とは違う。すっと勘違いをしていた。俺と日影が同じだなんて。  気がついてしまったのだ。この恋は、日影を愛おしく想うこの感情は、日影が安心して見下せる存在だったからこそ生まれたものだった。  興奮と平静の狭間で導き出した俺の感情の分析は驚くほど客観性に満ちていて、俺の醜悪さを浮き彫りさせた。  日影が特別な才能を持つことを知りながら、日影がそれに気が付かないことをいいことに、日影を俺の方に引き摺り込もうとしていた。あまつさえ、その宝物みたいな才能を、俺だけのものにしようとしていたのだ。  日影の心も才能も、全て食い尽くすつもりでいた。こんなものは、恋なんかではなかった。  光る場所で見つめ合う二人。そこには確かに、特別な何かがあった。きっと、そういうことなんだろう。  馬鹿みたいだ。そもそも日影は蓮沼のことが好きだったのだ。俺のことなんて、眼中にもなかったのに。  当たり前のことだ。俺には日影のことを好きだなんていう権利さえなかった。だってずっと見下していた。そうしていい存在だと、どこかで思っていた。  あの教室で、あの空間で蓮沼だけが、日影のことをただのクラスメイトとして扱っていたのだ。日影が蓮沼に惚れたのもきっと、蓮沼がイケメンだとか陽キャだとかではなく、奴がなんのレッテルも張らずに人のことを見れる人間だったからだ。  もう日影と話すことはないのだろうな、と確信に似た思いがあった。日影は本来、俺と同じ世界にいる人間ではなかった。  もう輝いている日影の姿は見たくなかった。俺はそっと踵を返そうとした、その刹那。  日影の目が、俺を見た。その潤んだ瞳は間違えなく俺を捉えて、そしてゆっくりと頬を綻ばせ、安心したように笑ったのだ。  俺はそれを見て、たまらない気持ちになった。日影の心のどこかに俺の居場所がまだあるのならば、それが恋愛感情なんかではないのはわかりきったことだけど、それでも、俺の愛おしく思った日常には意味があったのかもしれない、と思えた。  それと同時に、俺を見る時と蓮沼を見る時、日影の目の形が微かに異なることに、今更ながらに麻痺していた胸が痛みを訴え出した。  やっぱり、これを失恋の痛みだと言ってもいいだろうか。利己的で醜悪なプライドを孕んだ日影への想いを、それでも恋をしていた、とそう言っても、許されるだろうか。  俺は何度心臓を殴られて痛みつけられても、光る日影から目を離せずにいた。この泡沫の恋の終着を、うまく見届けられるように。  
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