さよなら、泡沫の歌姫

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 喧騒の教室のなかで、その背中はやけに小さい。いま、俺たちの話題の渦中にある彼女だ。  ずっと下を向いて座っているからか、その伸びっぱなしの真っ黒な癖毛が前に垂れて、まるで陰鬱な夜の風に揺れる、柳の木のようだ。ひたすら静かに、この場をやり過ごしているように見える。わかる。かつての俺もそうだった。 「陰子たんってさ、彼氏とかいるんかなぁ」  下卑たニヤケ顔で、目の前に座る友人が言った。陰子、というのはもちろん本名ではなく、彼女の名字である日影から「かげ」という単語だけとった蔑称だ。 「いやぁ、まあねぇ」 「陰子たんだしなぁ、どうかなぁ」  不愉快な空気感が、俺の周囲を満たす。もちろん皆、日影に彼氏なんているわけないと思っている。わかっているのに話題に出すのは、単純に皆で馬鹿にして笑いたいからだ。  本人にギリギリ聞こえないくらいの声量で、密かに他人を嘲って楽しむ。これが高校生男子のストレス発散だ。日影はこのクラスの中でもぼっちで特に可愛くもなくて癖っ毛が酷くておまけに勉強も運動もできなくて、ストレス発散のターゲットにしても許される、と思われている。正直、不憫だとは思う。 「ウタぁ、お前はどう思う?」  ウタというのは、俺の名字、歌方(うたかた)からとった渾名だ。単純に二文字で言いやすいという理由で、よくこういう話題のオチに使われる。良い迷惑だ。良い迷惑だが、正直美味しいポジションだとは思っている。  ニタニタと口角を上げて、友人たちは俺に注目する。俺はまだ何も言っていないのに、すでに吹き出しそうになっている奴もいる。問いかけという形だが、実際、求められている答えは一つなのだ。 「……まあ、いるわけなくね?」  全員が同じタイミングで吹き出した。何が面白いか、手を叩いてわざとらしいほどに大きい笑い声を立てる。猿みたいだな、と思う。しかし行動は動物じみていても、その場の雰囲気に従属して他人と同じ行動をとることで安心するなんて、ある意味人間らしいな、とも思うのである。  例に漏れず人間な俺も、わざとらしい笑い声を腹から絞り出した。これが人間らしい生き方なのだ。  視線の先に映る小さな背中は、ぴくりと震えた。俺たちの声が、聞こえていたかもれしない。  よりいっそう縮こまって見える背中をみて、可哀想に、と他人事のように思う。
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