きみとぼくはともだち

2/10
前へ
/10ページ
次へ
 「智彦(ともひこ)、今日も暗い顔してんなぁ。そんなので観客が喜ぶのか?」  自宅のベッドで大樹がマスクをつけたまま笑った。治療を始めてすでに四年が経っている。余命宣告もなんのその、体中にメスを入れ、なお観客の前で歌う日を諦めていない。  譜面を見せろというので渡したら、テノールのパートを歌い始めた。僕はマスクの中でぼそぼそとバリトンのパートを歌う。  年明けにプッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』の公演を控えている。四年前から延期を繰り返した公演がようやく実現するのだ。詩人ロドルフォ役を大樹が務めることになっていたが、配役は一度全て白紙になった。  僕は再再々とオーディションを受け続け、マルチェッロの役を手にした。  大樹の名前がオーディションのリストに載ることはなかった。いずれの日も大きな手術を控えていて、僕が歌っているあいだ生死の境を彷徨っていたのだ。    僕は大樹にちくちくと注意をされながら譜面を読み込んだ。出演できないにもかかわらず、大樹は全てのパートを網羅している。リモートで僕らの練習を聞いて、その場で改善点を羅列するのだ。  体は痩せ、頬はこけ落ちた。それでもなおテノールの歌声はよく響いた。うるさすぎて隣家の住人から窓越しににらまれるほどだ。 「そんなに元気なら見舞いに来る必要なかったね」 「俺は呼んでない」 「はいはい、僕が来たいから来たんだよ」  ティーセットを運んできた小夜(さよ)さんが「ふふっ」と笑った。自宅でもマスクはしたままだ。素顔は結婚式のとき以来見ていない。 「あなたが智彦さんの話ばかりするから、私がお呼びしたのよ。お忙しいところありがとうございます」 「いえいえ」 「智彦が忙しいわけないだろ」 「あなた、またそんな言い方して」 「仕事がないのは本当ですから」  僕が頭をかくと、小夜さんは申し訳なさそうに頭を下げた。    数年前まで、僕らは様々な舞台の仕事を抱えていた。大がかりな舞台装置を備えたオペラを始め、地方都市の小さな公演、病院や介護施設の慰問、大学での講義も週単位で決まっていた。  それを一瞬にして失った。師事している先生方にも経験のないことだった。この世から声楽という芸術が失われるのではないかという不安を、誰もが抱いていた。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

11人が本棚に入れています
本棚に追加