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年が明け、『ラ・ボエーム』の公演初日を迎えた。舞台衣装に身を包み、豪華絢爛なステージの上で歌うのは五年ぶりのことだ。
自宅療養が難しくなった大樹は入院生活をしながら、僕の練習動画をチェックしてくれた。二回、三回と公演を重ねるうちに大樹からの連絡が途絶え、小夜さんから短いメッセージだけが送られるようになった。
詩人ロドルフォの役を務めるのは新しくメンバーに加入した涼宮くんだ。大樹からの折り紙付きだったが、公演を重ねても微妙なところで息が合わない。
「智彦さん、いつまで大樹さんの歌を引きずるんですか?」
「いつまでって……」
「あなたと歌ってるの僕なんですけど、見えてます?」
本番前、涼宮くんは苛立った様子で僕にからんできた。彼にとって初のオペラ公演なのに評判が芳しくないのだ。
「僕は涼宮くんに合わせてるつもりだけど」
「智彦さんは大樹さんの歌ばかりイメージして歌ってますよね。目の前にいるの俺なんですけど?」
彼は大樹よりも十も年若く、スラリとした高身長の青年だ。がっしりとした体格で豊かなテノールを響かせていた大樹とは比べようがない。
「僕はどうすればいいのかな?」
「大樹さんはいなくなったものと思って下さい。どうせ先もないんだし」
言葉より早く、僕は涼宮くんの胸倉をつかんでいた。整えたタイが無様に崩れる。涼宮くんは顔を歪めながら続ける。
「だってそうでしょう? あの人の全盛期は終わってますよね。生きてるのか死んでるのかもわからない人にいつまで寄りかかってるんですか」
「大樹は生きてる」
「練習動画、送ってたそうですね。よく部外者にそんなことしますね」
「大樹は部外者じゃない」
「しつこく智彦さんにしがみついてる亡霊ですよ。そんなんじゃあなたの才能まで……」
「大樹は生きてるって言ってるだろ!」
僕は怒りに任せて涼宮くんを突き飛ばした。控室の椅子が盛大な音を立てて倒れる。騒ぎを聞きつけた共演者たちが僕らを取り囲んだ。尻餅をついた涼宮くんが僕をにらみつける。
「あなたの仲間は今ここにいるんですよ。大樹さんじゃない」
「わかってる……」
僕は顔を隠すようにして廊下に出た。共演者たちが慰めの言葉をかけてくる。お針子ミミの衣装をまとった美波さんが僕の前に立った。
「私も涼宮さんも、声楽家としてこの舞台に命を懸けているんです。わかってもらえますか」
小柄な彼女が語気を強めて言った。僕はたまらなく情けなくなり、彼女や共演者たちに頭を下げた。
涼宮くんは鏡の前でタイを整えていた。メイクスタッフが乱れた髪を直している。
「申し訳ない」
「いえ、僕らを見てくれればそれでいいんです」
涼宮くんは僕に手を差し出した。後輩に慰められるなんて大樹に怒られるなと、彼の顔を思い出してからまた自己嫌悪に陥った。
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