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『ラ・ボエーム』の公演は散々な結果で終わった。期待していたほど客足が伸びず、批評家にはひどい書かれようだった。期待の星だった涼宮くんのことはいくつか記事になったが、僕は論外だ。次のオーディションに受かることはないだろう。
大樹との連絡が途絶えたまま、春コンの日を迎えた。大樹の代わりにテノールを務めるのは涼宮くんだった。
彼は子供向けの歌がとてもうまい。スマートで整った面立ちも手伝って、保護者の人たちから絶大な人気を得ていた。
浜矢湖ホールで開催された春コンの三日目、客席の中に小夜さんの姿を見つけた。一人でぽつんと最後列に座っている。
「小夜さん、心配したんですよ。大樹はどうしてるんですか」
「あ……智彦さん」
僕の顔を見るなり、小夜さんは涙をこぼした。僕のタキシードの袖を握って携帯電話の画面を見せる。
「今日の公演をどうしても聞きたいって……それでリモートで私が……いいですか」
「構わないですけど、大樹は病室で見るんですか」
「あの人……もう目が……だから声だけでも聞きたいって」
「目が……」
小夜さんの涙がとまらず、事情を聞くのに時間がかかってしまった。開演十分前のブザーが鳴り、スタッフが僕を呼びに来た。
「音響スタッフから送信できるよう手配します。早く病院に戻ってあげて下さい」
小夜さんはスタッフに肩を支えられてホールを出た。僕は大急ぎで舞台袖に戻る。
涼宮くんに怒られながら、僕は舞台に出た。拍手が僕らを出迎える。客席にいる子供たちの中にはマスクをつけたままの子もいる。一緒に歌う曲も用意しているけれど強制はできない。
どうか歌う喜びが子供たちに届きますようにと祈りながら『きみとぼくはともだち』を歌った。大樹と教え合った手話を涼宮くんと美波さんに伝え、浜矢湖声楽アンサンブル総勢12名と共にこの曲を歌った。
初めてなのかたどたどしい手つきの子、慣れた様子で歌を口ずさむ子、マスクをしたままじっと僕らを見つめる子。色んな子たちの中に、あの日の僕らが見えるようだった。
僕は大樹と向かい合って手話をした。たとえ見えなくても歌声は心と一緒に届く、そう信じて。
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