5人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
きみに届ける歌
「パートをかえてくださーい」
軽く明るい声。更紗だ。
もうすぐ学校で合唱コンクールがある。
6年の私たちにとっては最後の合唱コンクール。
なのに更紗が何度もアルトからソプラノ、ソプラノからアルトへ変更希望をだす。
練習にならないからやめてほしいのだけれど、先生は許してしまう。更紗のお母さんはPTAの役員で、学年でも特別目立つタイプのお母さんだ。
──そういうこと。
更紗の言動に誰も何も言わない。
私はくるりと周りをみまわして、ふう、と息を吐いた。
*
ソプラノのエースは、というか6年2組のエースは。
というより、学校の合唱部のエースは。
双葉という大人しい女の子。
「ソロパートあるけど大丈夫だよね、双葉さん」
担任の石本先生も、はなから双葉にお願いして、それについて誰も文句を言うことはなかった。
クラスの全員の共通認識として双葉は歌がうまい、というものがあって。
その事実は確かなもの。
双葉以外の私たちは希望をだしてソプラノとアルトに別れた。男の子は男子パートひとつ。
そんなふうに。
自分で最初に希望を出して、更紗はアルトになったはずなのだけれど。アルトで難しい音程が続くとすぐに主旋律のソプラノに移りたがって困る。
そんなんじゃ練習にならないから。
双葉の横でソプラノを練習しながら私は心の中でぶつぶつ文句を言っている。
「パート移りたいでーす」
パート練習中の音楽の時間に、もう何回目かの「うつりたいでーす」を聞かされたとき。突然双葉が口を開いた。
「いいよー更紗。でもさ、人数があれだから私がアルトに移ろっか?」
ざわり。
教室中の空気がざわついた。
一瞬冷えて固まってから、みんなが声にならないような声をだし、首を振り、互いの顔をみて、ざわざわと空気をゆらした。
「ほら、私がアルトで更紗がソプラノにかわればいいよ」
ざわざわした不穏な空気をものともせずに。
なんの問題も無いような涼しい顔で、声で、双葉が言った。
え、それって
だめじゃん、ソプラノがたがたになるよ
更紗と双葉じゃちがいすぎて
一斉にみんなの声が波のように押し寄せてくる。
それはもちろん私にじゃなくて、更紗のところに。
大きな大きな波、が。
「ねえ、それってイヤミ?」
静かに双葉に近づいて、更紗が低い声をだした。
双葉は驚いたようにこたえる。
「え? イヤミ? なんで?」
「とぼけないでよ、そんなのイヤミに決まってる!」
「なんでこれがイヤミになるの?」
今にも双葉の胸元につかみかかりそうな勢いで更紗が双葉に迫ったが。
でも当事者の双葉がまったく意味がわからないような顔をしていて。
更紗はふうっとため息をついて双葉から離れた。
「──やなかんじ。もういいよ、私がアルトのままでいいよ」
「え? いいのに。かわるよ? だって」
「それじゃみんなが納得しないから!!」
ぎろり、と教室中をみまわし更紗が大声で終止符をうった。
*
結局、双葉がソプラノのまま。更紗がアルトのまま。
おそらくもう更紗がパートかえて、とは言わないだろう。
クラスのみんながそう思った。
合唱コンクールはもう1ヶ月後に迫っていた。
双葉の歌声はソロでもソプラノパートでもみなをぐいぐい引っ張ってくれる力強さがある。音程をはずさない。大人しい彼女からは想像できないくらい大きく、自信をもった声が響く。
そんな双葉が先生に提案したのは、あと2週間で本番、となったとき。
双葉が私の顔を見ながら、突然言い出したことは。
「先生、ソロなんですけど、杏那と2人でやってもいいですか? 1人だと不安で」
「はああ?」
突然の指名。
私は全力で拒否をする。どうして。なんで。私なんて双葉と一緒にはできない。不安なんてないでしょ? 双葉だよ。
「今からなんて、無理! 無理だよお」
泣いてみたけど、双葉が撤回してくれない。
「せんせいいい」
すがる目で石本先生を見たけれど、スルー。
ええ。どうして。
私はわけがわからずに先生と双葉を交互に見やる。
その時。
「できるんじゃない? 双葉の指名だし」
更紗が冷たい声でGOを出して、そのまま教室の空気が決まってしまった。更紗は自分が指名されなかったことがイライラするようで、でもそれを言い出したらかっこ悪い……そういう感じの口調で、どうでもいいように強く吐き捨てた。
仕方ない。
双葉のとなりで声を出していればいいんだ。
そう自分を納得させて、双葉と一緒のソロを引き受けた。
*
双葉は大きな声で息継ぎも上手にして、歌う。
かすれたりしない。
音程も外さない。
今まで双葉の横でソロを聴いてきたから、もちろんソロを覚えてはいたのだけれど、実際に歌うのとは全く印象が違う。難しい。
双葉の強い声に引っ張られているときはいいけれど、1人でやってみて、と言われると途端に自信がなくなる。
ついうつむいて、自分の上履きの先を見てしまう。
「杏那、だめだよ。下を向かないで。私がいなくてもちゃんと音程とって。それから声が小さい。もっと大きな声で大丈夫。できるよ、だから大丈夫だよ」
「杏那の声、私のところまで聴こえてこないからね、いっとくけど」
更紗が追い打ちをかけるようにアルトの立ち位置から私に声をかけてくる。キツいけど、本当のことだ。
「ごめん、だって」
「だってはいらないの。はい、もう一回ね」
意外にスパルタの双葉を発見してしまった。
したくなかったけれど。
ううう。
おなかが痛くなる。でも。
「大丈夫だよ、杏那、できるよ。大丈夫だから」
だいじょうぶ。
だいじょうぶ。
何度も双葉に言われて、腹をくくる。
少し足を広げて立つ。
おなかに力を入れる。
まっすぐ前を見る。下をむかない。
足に声を聴かせてどうする。
私は大きく息を吸い込む。
そうして1人で、歌い出す──。
*
「双葉がきてないよ」
「え? うそ。なんで」
合唱コンクールの当日。
朝のホームルームの直前。
指揮者の玲於奈が言い出した。
ひとつ空席のある教室。
そこにいつも静かに座っている双葉がいない。
その時、石本先生がガラリとドアを開けて入ってきた。
「せんせー、双葉は休みですか?」
元気な男子が手を挙げた。面食らったように石本先生が黙った。
「今日は合唱コンクールなんですけど」
「双葉いないとこまっちゃうよねえ」
「うん、そだよね」
口々にきこえてくる声に、石本先生は言いにくそうにこたえる。
「あー……突然なんだけど、双葉さんは家の都合で今日は欠席になりました」
「ええええ!!」
「うっそ! どうするの、ソプラノ!」
みんなが一斉に私を見た。
『どうするの、ソプラノ』
──そんなの私が一番言いたいよ!!!
視線に耐えられず、私はぎゅっと目を閉じて机に顔を伏せた。
どうしようどうしようどうしようどうしよう。
私、1人で。
本当に1人でソロパート歌うの?
歌えるの? 本当に?
「しょーがないじゃん」
その声で、しん、と教室が静まりかえった。
更紗の声だった。
「こないんなら、しょーがないじゃん? やるしかないじゃん!」
私の耳に、心に、まっすぐに聞こえてきた強い言葉。
顔をあげて、更紗を見つめる。すると更紗が私をじっと見返してくる。
「あの双葉が、杏那を指名したんだし。実際前より杏那の歌、すっごくよくなってるし」
そこで一瞬途切れて、すぐに更紗が言葉を続けた。
「ほら、私たちだけで金賞とってさ。休まなければよかった!って双葉を悔しがらせてやろうよ」
ニヤリと笑う。
その言葉にみんながほうっと笑顔になった。ひんやりした空気がほんの少しあたたまる。軽くなる。
目を瞬かせて更紗を見ながら、私も少しだけ、笑った。
*
ソロパートを1人で。
それは当たり前なのだけれど、私にとっては当たり前ではなくて。
双葉がいることが当たり前だったから、自信はもちろん無い。
でも。
でもさっき更紗が言ってくれた言葉。
『あの双葉が指名して』
『実際、杏那の歌はすごくよくなってるし』
双葉が私を信じて指名してくれたんだ。
自分を信じるのは難しいけれど、自分以外の──双葉や更紗の言葉なら信じてもいい。というか、それしか縋れるものがない。
更紗はあれから一度もパートをかわりたいとは言わなかった。
アルトのパートリーダーとなってアルトをしっかり支えていた。
だから、うん。
そうだ。
『大丈夫だよ、杏那』
双葉の声が聞こえる気がした。
そうだ。
きっと大丈夫。
*
──さあ、旅立ちのとき
大きく息を吸う。
ピアノの音に合わせ、みんなが体を揺らす。歌声を合わせる。
指揮者の腕がすっとあがり、みんなの体は一斉に静止した。
ソロの私は半歩前へ出る。
さあ、旅立ちのとき──
足を広げてしっかり立つ。
息を吸う。おなかに力を込める。
双葉がそうしていたように私も。
そして、歌い出す──。
*
「ふふ。私もやっぱりコンクールに出たかったなあ」
「そうだよ双葉。急にこないんだもん。私がどんなにこわかったかわかる?」
「わかんない」
「ひど」
「だって、杏那なら大丈夫だって知ってたから」
けろりとして双葉が言うから、それ以上は言い返せない。
合唱コンクールは銀賞に終わり、でもみんなすっきりした顔をしていた。更紗はひどく悔しがっていたけれど、でもみんなで精一杯歌ったから、それで私は満足だった。
だって精一杯歌ったから。
双葉がいなくても、私は精一杯。
合唱コンクールのことを思い出していたら。
双葉がにこりと笑った。
「あのね、私、いなくなるんだ。転校するの」
「え?」
「転校はもうずっと前から決まっていたんだけど。あの日はどうしても向こうにいかなくちゃだめで欠席しちゃったんだ」
「そう、なんだ。転校、決まってたんだ」
私の視線を避けるように双葉がうつむいた。
「だから、もしかしたらコンクールに出れないかもって思ってて。だからソロパート2人にしてもらったの。さすがにソロがいなくちゃだめだし。それに」
「それに?」
双葉が顔をあげて私をまっすぐ見た。
「杏那にならソロを任せられるって。信じてたから」
*
合唱コンクールから2週間が過ぎた。
「また連絡ちょうだいね!」
双葉と笑顔で言い合う。
今日は双葉の最後の登校日。そして放課後。
明日になればもう双葉は転校してしまう。
更紗が進み出て、憎まれ口をたたく。
「また悔しいって言わせてやるから。私たち、双葉よりもずっと歌が上手になるからね。中学校あがっても」
「ふふ。楽しみにしてる。私むこうの小学校でも合唱部って決めてるんだからね。むこうの中学校にあがっても」
更紗は少し悔しそうに口をゆがめて、でもすぐに笑って。静かに口を開く。
「あの時、ごめんね」
「んん?」
「なんかソプラノとかアルトとか変更して迷惑かけて」
「んん? でも大丈夫だったでしょ? 更紗、ちゃんと音程とれるんだから。どっちもちゃんとできるって思ってたよ」
ふわりと笑って双葉は言った。
「……ありがと」
小さくこたえた更紗の頬は、いつもより赤かった。
*
──さあ、旅立ちのとき
できるよ、自分を信じて。
大丈夫、自分を信じてあげて。
背中を押してくれるあの日の歌。
大切な、思い出の歌。
もう双葉と一緒には歌わないけれど。
双葉や更紗のおかげで自分も歌えるって思えた。
そう。
みんなでお互いに。
みんなで、みんなの背中を押して──。
最初のコメントを投稿しよう!