耳なしの歌乞い

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 青々と茂る森の陽だまりで、「あー」「うー」と喃語のような声がする。  ボサボサ髪の少女が背筋を伸ばし、まっすぐに前を見て歌の練習をしている。  もちろん脚は肩幅だ。  少女の美しい翠玉色の瞳は真剣そのもの。  大きく息を吸って、腹に力を込めて、しっかりと口を開ける。 「あえいーぅー!」  少女の声はただ大きいだけで旋律もなく、はっきりとした言葉にすらなっていない。  それでも、少女は汗をかくくらい何度も発声を続ける。    少し喉が痛み始めたので、少女は練習を切り上げた。  毎日少女が通いつめてできた細道を通り、村を目指す。  森の切れ目が見えると、ちょうど広場で歌乞い(ナユラ)一族が雨歌を歌うところだった。  一族の長であり、少女の父でもあるソヨンが前に立ち、美しい低音を響かせながら一族の歌を導いている。  歌の前半が終わる頃には、青く晴れ渡っていた空は灰色の雲に覆われ、やがてポツポツと水滴が頬を濡らし始めた。  もう何度も見慣れた光景だが、少女はいつも感動で心がいっぱいになる。    少し濡れた地面を駆けて、自らも歌い手達の中に入ろうとした。  しかし、あと一歩というところで、ソヨンが憤怒の形相で少女を睨みつける。  少女は瞬時に体を強ばらせた。  瞬きすらできず硬直していると、いつの間にか歌は終わり、雨は本降りとなっている。  大粒の雫が、少女の頬を叩きつけた。 「耳なしが歌い手に混じろうとするな。一族の恥め」  ソヨンの口が棘のある言葉を放つ。  声は聞こえないけれど、唇を凝視すれば大抵の言葉は分かる。 「ナンナだ。耳なし、ナンナ」  従兄弟のワグムが馬鹿にしたような笑みを浮かべると、子供達もくすくすと忍び笑いを漏らした。 「今日の歌儀(かぎ)は終わった。各自、風邪を引かぬように体を温めよ」  ソヨンが耳なし(ナンナ)に背を向けと、皆一度も振り返ることなく去って行く。  ナンナはしばらく、雨の中で小さく歌儀の歌を口ずさんでいた。  一度も聞いたことのない旋律を、想像しながら。      一般家庭の倍以上広い食間で、ソヨン一家が食事をしている。  ナンナは部屋の隅にある飯櫃の隣で、正座しながら空腹と闘っていた。  ワグムが手を上げる。  ナンナは素早く立ち上がり、おかわりをよそって手渡しに行く。  次々生じるおかわりに応え、ようやく全員が食べ終わった頃には、飯櫃の中は空っぽになっていた。 (また残らなかった…)  食間にナンナの席はない。  だから、片付けるついでに皆の残り物を食べている。 「叔父さん、叔母さんの席のご飯も食べていい?」  ワグムはソヨンの隣の席を指差す。  誰もいない卓に一人分の配膳が乗っている。 「ワグム」  ソヨンの兄で、ワグムの父であるイサクが嗜める意味で名前を呼ぶ。  ワグムは肩をすくめて退席した。  それを皮切りに、他の人間も次々と席を立つ。  ソヨンは部屋を出る寸前に、ナンナに声をかけた。 「いつも通り、ヘレンの分も片付けておけ」  ナンナは安堵の表情で頷いた。  誰もいなくなると、ナンナは母・ヘレンの席に腰を下ろす。  やっとご飯にありつけるのだ。  ソヨンがヘレンのために陰膳を用意するよう指示する前は、本当に飢えていた。 (父様が母様を今でも大切にする方でよかった。そうでなければ、私は今頃骨と皮だけになってるわ)  ナンナが嬉しそうに食べているのを、遠目に一瞥する者がいたことには気付かなかった。    今日の夕焼けはいつも以上に赤い。  まるでこちらの悲しみを写しとっているかのようだ。  ヘレンが亡くなったあの日も、空は一面赤く染まっていた。    断崖絶壁に独りヘレンが佇んでいる。  真っ赤な海を背景に振り返って……。 「歌えない子に生んでごめんね」  寂しそうに笑いかけて、彼女は海の向こうへと落ちていく——。    もう六年前のことだが、昨日のことのようだ。  今は、崖の淵にソヨンが立っている。  いつもは大きな背中も、今は小さく見える。  微かに、大気の震えを感じた。  ソヨンが歌っているのだ。  背後からでは唇の動きが見えないが、弔歌(ちょうか)だろう。  歌が進むにつれ、ソヨンの肩が震えてくる。  思わずナンナが一歩前に出ると、足元で枯れ枝の折れる音がした。  ソヨンが勢いよく振り返る。  その頬は沢山の涙でしとどに濡れていた。 「何をしにきた?」  低く、怒りに満ちた声。  ナンナは後ずさった。  すぐにソヨンの足が追いつく。  ナンナの持っていた死者への花(ユリカズラ)が勢いよく払い落とされた。 「お前には! ヘレンを弔う資格などない! 耳なしで生まれてきたお前になど! 決して!」  ナンナはソヨンが去った後をその場を動けなかった。  大粒の涙が堰を切ったように溢れ、石の上にへたり込む。 「|おえーなあい、いいないてうあえていて、おえーなあい!《ごめんなさい、耳なしで生まれてきて、ごめんなさい》」  ナンナは大声で叫びながら泣き濡れた。  遺体のないヘレンには、墓すら存在しない。  ひとしきりないてから、散った花をかき集め、崖の淵にそっと置く。  風が花をヘレンの元へ届けるのを見ながら、ナンナは崖先に向かって深く首を垂れた。    ヘレンに会いに行った夜は、大抵熱を出す。  崖付近は風が強いので、長時間いると体を冷やすのだろう。  喉の渇きを感じながらみじろぎすると、誰かが水差しを枕元に置いた。  人より目がいいナンナは、月の出る日は夜中でもある程度周りが見える。  ソヨンだ。  ソヨンはナンナの額に手を乗せると、小さく眠歌(みんか)を唱える。  六年枯れることのない憎悪をぶつける相手に、聞こえない歌を口ずさむ……実に不可解だ。 (いっそ完全に冷たくしてくれれば、淡い期待すら抱かずに済むのに)  ナンナの目尻から水滴が滴り落ちた。    家事の一切を強制されるナンナには、自由時間が限られる。  それでも時折ナユラに伝わる歌の歌詞を書き出しては、何度も読み直して自分なりに解釈を深めていた。  筆先に墨をつけて、歌の理解を深めるこの瞬間だけは、自分も歌い手の一員と思うことができる。  今日も一心不乱に書き続けていると、突然祖母のホニャムに紙を取り上げられた。 「花の香しさ、小川のせせらぎは安らかな日常を暗示しており……。何じゃ、一丁前に、歌を理解しておるのか。滑稽よのぉ。まともな言葉一つ話せんお主が、これほど流暢な字を並び立てるなど」  ホニャムは墨入れを思い切り蹴飛ばす。  重ねておいた未使用の紙が、真っ黒に染まった。  しかし、ナンナはホニャムが奪った歌の解釈の方へ手を伸ばす。 「あえいて(かえして)」 「何を言うておるのか、ちぃとも分からんわ」  ホニャムは紙を持つ手を高く突き上げ、三日月のように目を細めて笑う。  十歳のナンナが背伸びをしても、あの皺がれた手には届かない。  それでも必死に腕を伸ばしていると、不意に大きな手が横から現れて、紙束をホニャムから掠め取っていった。 「婆様」  ソヨンの抑揚のない低音が響く。 「耳なしに関わるだけ時間の無駄です」 「ほっほ。それもそうじゃの」  ホニャムは笑いながら去っていった。  ナンナは紙束が無事であったことに安堵の息を漏らす。  が、その直後、繊維の裂ける音がした。  驚いて顔を上げると、紙束がソヨンの手によって真っ二つに破かれている。  ナンナは、瞬きするのも忘れてしまった。  さらに半分、もう半分。  せっかく書き溜めた歌の解釈は、紙吹雪となって墨だらけの床に散っていった。 「こんなことをして何になる。叶わぬ夢を追うな」  遠ざけるソヨンの足音を聞きながら、ナンはその場にペタリと座り込む。  諦めなければ、夢は叶うと信じていた。  母殺しも同然の罪を、歌い手になれば償えると思っていたのだ。 (父様は決して私を許さない……だから、命名の儀さえ執り行わなかった)  ナンナはいても立ってもいられなくなって、外へと飛び出した。  草むらをかき分け、木々の合間を縫い、夢中で走る。  途中、木の根に足を取られて顔面からこけた。  顔も心も痛くて、胸が張り裂けそうな苦しみの中思い出したのは、癒歌(ゆか)。  旋律が分からずとも、はっきり口で紡げなくとも、口ずさめば心が静まっていく。 (ああ、やっぱり、私は歌が好きなんだ。歌い手になれるとか、なれないとか関係なく)  その後も思いつくままに歌い続けていると、突如目の前に青い光玉が現れた。  光の中心には小人のような存在がおり、背に小さな羽を携えている。  驚いて声を出すのを止めると、小人は肩をすくめ、空の彼方へ消えてしまった。      その日を境にナンナの視界は変わる。  ナユラの誰かが歌を歌うと、必ず青い光玉を見かけるようになったのだ。  小人達は興奮が高まると激しく動き出す。  特にナユラが雨歌を歌った時は、踊るように飛び回ったかと思うと、やがて寄り集まり青い光の渦を作りながら天高く舞い上がっていった。  空に青い光が満ちると、今度は中心部から雨雲が生まれ、瞬く間に雨が降り始める。 (この小人達が、雨を降らせていたのね)  ナンナは小人達に会うのが楽しみになった。  今までずっと一人で歌の練習をしていたので、彼らが側で聞いてくれるのが嬉しい。  他のナユラ達は相変わらず「無駄な努力だ」と罵ったが、そんな反応も気にならなくなった。  ある時、いつものようにナユラ達の歌を観察していると、若い女性が自分の子供に歌を聞かせているのが目に入る。  母親に抱かれた幼子は、歌に合わせて手を叩く。  その周りに、青い光玉が集まっていた。  小人達は嬉しそうに幼子の近くを飛び回り、笑いかけている。  途端にナンナは閃いた。 (ひょっとして、歌って、声を出すものとは限らない?)  そこからナンナの練習はガラリと変わる。  何度破り捨てられても書き続けた歌の解釈を、身振り手振りで表現し始めたのだ。  時にその場で飛び跳ねてみたり、万歳したり、あるいは綺麗な布を放り投げたり……。  ナンナは楽しかった。  小人達も笑っている。  しかし、他のナユラ達からすると、ナンナの行動は理解できないものだった。 「叔父さん、ナンナがついにとち狂ったよ」  ワグムに案内されて、ソヨンが森の奥へ様子を見に行くと、ナンナは奇声を上げながら小枝を振り回したり、小石を投げたりしている。 「俺、あんなのと血縁だなんて、恥ずかしいよ」 「……そうだな」  ソヨンはそう答えながらも、ナンナの表情から目が離せない。  今まで一度も見たことのない、心からの笑顔だった。      ナンナが己の歌を突き詰めていく間に、村にも変化が訪れていた。  雨の降る量が減ってきたのだ。 「これは由々しき事態じゃぞ、ソヨン」 「婆様のおっしゃる通りです」  重鎮達の会議で、ソヨンは渋い顔を見せた。  報告によれば、村の生活水である湖の水位も下がってきているらしい。  作物の育ちも悪くなっている。  このまま雨量が減り続ければ、ナユラ達の生活は困窮するだろう。 「精霊が怒りを覚えておるのじゃ。昔はナユラなら皆青く輝く光玉を見ることができた。今や誰もその姿を捉えられん。異変はずっと前から始まっていたのじゃ」  ホニャムが鎮痛の表情を浮かべると、他の者達は反発するようにふん、と鼻を鳴らす。 「今時精霊など誰も信じていない。それでも、ずっと雨は降っていたではないか。むしろ、今このような深刻な問題が生じるのは、ナユラにふさわしくないモノがいるからではないか?」  イサクの言葉で、その場の空気が苛烈なものへと変わる。 「そうだ、あんなモノがナユラに混じっていること自体、許されることではない」 「最近ではとうとう気も触れたとか? アレの奇行が我らの歌の価値を貶めているのでは?」 「そうに違いない! なぜあんな奴がのうのうと生きて、一族きっての美声だったヘレンが──」  木材の叩き割れる音がして、重鎮達は一斉に口をつぐんだ。  ソヨンが、思い切り拳を卓に打ち付けたのだ。 「今は耳なしに議論の時間を割いている場合ではない。最近は子供も増え、歌の質も落ちた。早急に、練習時間を増やし全体の力量を上げねばならぬ。雨の恵みを取り戻すのだ」  重鎮達は一斉に膝を突き、手と手を合わせて礼をとった。    一方、ナンナもまた大人達とは違った側面から異変を感じている。  最近の小人……もとい精霊達は、とてもつまらなさそうなのだ。  ナユラ達が歌うと周囲に寄っては来るものの、あまり動かずすぐ立ち去ってしまう。 (絶対綺麗で完璧な歌のはずなのに、どうして?)  疑問に思う反面、ナユラ達の様子も、以前とは異なることに気付いていた。  常に疲れており、歌っている時の顔も緊張に満ちていて、とても固い。  そして、指導する年配者達の雰囲気も尋常ではなかった。  特にソヨンは眉間に深い皺を刻み、鬼気迫る表情で大声をあげている。  昔は皆自由に歌の練習をしながら、一日に一回本格的な指導を受ける程度だった。  今では朝から晩までほとんど休みなしだ。  家で親戚たちの世話をしていても、実に静かである。  おかわりをよそって渡すと、ワグムがぼそりと呟く。 「いいよな、お前は。歌わずに済んで」  ナンナは人々を覆う陰鬱な空気に困惑した。    ナユラ達が練習を積めば積むほど雨はますます減っていき、ついには日照り続きとなる。  作物も枯れ、本格的に水不足に悩まされ始めた。 「なぜ雨が降らないんだ!」  ソヨンが卓を叩きつけても、誰も反応しない。  皆腹が減り、喉も乾いているため、感情を昂らせる元気もないのだ。 「落ち着け、ソヨン。我々の歌は完璧だ。ただ少し、雨が降るまでに時間がかかるだけだ」  イサクの言葉にも、ソヨンは食ってかかる。 「ならいつになれば降るというのだ! 前にわずかながら降ったのも、三ヶ月以上前の話なんだぞ! このままでは、我々は……」 「叔父さん!」  会議中に、ワグムが割って入った。  その顔は真っ青になっている。 「婆様が……」  ソヨンはすぐさま駆け出した。  自宅の寝室でホニャムがか細い呼吸をなんとか繰り返している。  ひと目見て、もう長くないと分かる状態だった。 「婆様!」 「ソヨン……ワシらは、今、かつてない危機に瀕しておる。これも全ては、ナユラの忌子がもたらしたもの……。歪みを正すのじゃ。さすればきっと元に……うっ」  ホニャムは胸元を強く握り締め、そのまま体から力を抜いていく。 「婆様? 婆様!」  ソヨンはホニャムを揺り動かしたが、二度と彼女が目を開けることはなかった。  放心状態になっていると、後を追ってきたイサクが低く唸るような声で促す。 「ソヨン、行くぞ」 「……どこにだ?」 「決まっているだろう。全ての元凶を消しにいくのだ」  ソヨンが驚いて振り向くと、イサクを始め重鎮達はあたりに転がっていた花瓶や火かき棒などを手に、物々しい有様で家を出ていく。 「待て、勝手なことは……」  ソヨンの呼びかけを無視して、イサクはナユラ達を焚きつける。 「皆の者、聞け! 婆様が亡くなられた。歪みを正せ、忌子を亡き者に……それが婆様の最後の言葉だ。我々は婆様の遺志を継ぐ! 飢えや渇きに負けるでない! 今こそ、この日照りの元凶を根絶するのだ!」  ナユラ達は目を血走らせ、ひび割れた唇から血を垂らしながら歓声を上げた。  老人から幼子まで、皆何かしらの武器を持って森に向かう。 「待て、待て!」  ソヨンは激しく動揺していた。  一族の使命と、娘に対する得体の知れない感情がないまぜになって、身動きが取れない。  そうする合間にも、イサクを筆頭とした集団はどんどん森の奥深くへ進んでいき、ついにナンナの元へと辿り着いた。  イサク達は目を見張る。  日照り続きで枯れ木ばかりとなった森の中、ナンナの周りだけ青々とした草木が生い茂っている。  彼らの目には見えないが、精霊がここに集まっていたのだ。  ナンナは歌い続けていた。  手を振り、足を上げ、時に小道具を使って歌詞を表現する。  精霊達は青い光を振り撒きながら、あちこちを楽しそうに飛び回る。   「やはりこの女は呪われている! 成敗!」  イサクがナンナに飛びかかろうとすると、途端に足をもつれさせ、その場に倒れた。  ワグムが驚いて顔を覗き込むと、何やら吐きながら体を震わせている。 「父さん? どうしたの……あつっ」  イサクの肌に触れた手をすぐに引き戻す。  今度は、ワグムが目眩を起こして倒れ込んだ。  他の者達も、次々と喉の渇きや熱病を訴えて膝をつく。  空に輝く太陽が、突如灼熱の日差しを彼らに注いだのだ。  精霊達が怒りに満ちた表情で、イサク達に体当たりしている。  最後尾を追っていたソヨンもまた、訳もわからず激しい頭痛に襲われ倒れ込んだ。  誰もが、死を覚悟した。    ワグムは、今にも意識を失いそうな極限状態で、ナンナを見ている。  弾けるような笑顔で、手で花を象り、拍手で朗らかさを表現し、飛び上がって未来への期待を歌うナンナ。  胸の奥が熱くなる。  こんな気持ちは、もう長く忘れていた。 「楽しそうだ……」  自然と口が動き、途切れ途切れに言葉が漏れる。 「青き、清流、は……雲、を、呼びて……」  声は掠れ、音も外れ、美しさからはかけ離れている。  それでも、歌いたいという気持ちのままに、ワグムは声を出し続けた。    次第に、あちこちから歌声が漏れ聞こえ始める。  バラバラで、和音なんてどこにもない。  それでも、皆歌い続けた。  イサクでさえ、口を動かしている。  目には生気が宿り、悦びの色さえ見える。  ソヨンは失笑した。  一族の最後の歌が、実に無様なものだったからだ。  それなのに、なぜか彼らの歌が目から、耳から、離れない。    ナンナもまた、身振り手振りで歌いながら鳥肌が立っていた。  聞こえずとも、ナユラ達の熱気が肌で感じられる。  精霊達が興奮し始めた。  羽を激しく震わせ、辺りを飛び交う速度が増していく。  次第に彼らの動きは規則的になり、渦を巻き始めた。  凄まじい光を放ちながら回転し、天へ天へと舞い上がっていく。  ナンナの体が身震いした。 「くう(来る)!」  ナンナが叫んだ瞬間、ナユラ達は全員見た。  青い光が空に立ち込め、中心部から灰色の雨雲が次々と生まれていく光景を──。 「馬鹿な……」  ソヨンは目を見張った。  彼の信念を覆すように、何の技術も型もない歌が雨を呼んだのだ。  ナユラの歴史上最も下手くそな歌を歌った人々は、降りしきる雨に歓喜の声をあげ、いつまでも歌い続けた。      村の医療所から赤子の泣き声が響く。  近くを彷徨いていた男性が弾かれたように顔を上げる。 「生まれましたよ」  産婆が姿を表すと、一目散に中へと入っていった。  他のナユラ達は近く行われる誕生と名付けの宴のために準備を始める。  ナンナも、宴で歌う祝歌(しゅうか)を練習していた。  今や他の子供達の輪に加わって、筆談で歌詞の解釈や歌い方について語り合う。  赤子の生誕から一ヶ月後の夕暮れに、宴は厳かに執り行われた。  ソヨンが親子に生命歌(せいめいか)を捧げる。  父親は感無量の面持ちだが、母親は浮かない顔だ。  ソヨンが声をかける。 「どうかしたのか?」 「実はこの子、泣き声がいつも掠れてか細くて。ちゃんと将来いい歌い手になれるか心配で……」 「子の成長と共に様々な変化がある。長い目で見守ることだ」  諭してみるものの、母親の顔は晴れない。  すると、ワグムが会話に入ってきた。 「別にいいじゃん。声が出ないなら、ナンナに歌い方を習えばいい」  母親はハッとしてナンナの方を見る。  ナンナは少し大人びた笑みを返す。 「そうね、その通りだわ。少し過敏になってたみたい」  母親はやっと笑顔を見せた。  そのまま名付けの儀式に移り、ソヨンは赤子にラウルという名を与える。 「では、次は祝歌に移り……」 「待て」  イサクが宴を進めようとすると、ソヨンが止めた。  ナンナを手招きする。  ソヨンは幾分か背の伸びたナンナの頭に両手を添えて、じっと目を見つめた。  自分と同じ、翠玉色の瞳。  ソヨンは名付けの儀式と同じ言い方で告げた。 「ソヨンとヘレンの娘。その名はマユール」  ナンナを雷に撃たれたような衝撃が襲う。 (マユール、歌う子(マユール)……私の名前!)  イサクは勢いよく手を掲げて叫び、ワグムはマユールに手を差し伸べる。 「祝歌だ!」 「歌おう、マユール!」  マユールは嬉しそうにその手を取った。  マユールの歌が篝火に照らされちらちら輝く。  日は山の奥へ沈み、空は真っ赤に燃えている。  もう、その赤は血の色ではなく、照らす炎の温かな色だ。  ソヨンは美しい低音の歌声を、マユールの歌に乗せた。
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