ねこもち

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「あー、疲れた」 誰にも聞こえる事のない、盛大な溜め息を帰り道に吐き出す。仕事も繁忙期になってきて、ここのところ充分な休みが取れてない……。最後に休んだのはいつだっただろうか。頭の中の引き出しを漁るが、中身はない。空っぽなのだ。頭を振ったら、カラカラと乾いた、頼りない音が鳴る事だろう。  ダメだ、早く帰って、早く寝よう。  俺は、残り少ないスタミナを足に集中させた。 「もし、そこのお方」  濡れた色気を帯びた声が聞こえて、スタミナを注ぐ集中がぴたりと一瞬止まる。それに伴って、俺の足がもつれ、危うく転けそうになった。 「おや、大丈夫ですか?」  声が若干の笑いを含んでいたので。思わず眉を顰めて顔を上げた。お前が急に声を掛けてきたからだろ。いや、そもそもお前は誰なんだ。妙に色っぽい声しやがって。  胸の内だけ湧き出る文句を、いくつも並べ立てていたのに、声の主の顔を見た瞬間霧散した。  白い玉のような肌と、艶やかな漆黒の髪をした見目麗しい着物を着た美女が、こちらに優しく微笑みかけていた。一見、夜には人間と景色の境界がやや判別できない色をしている。  しかし、美女が立っていた所は店の前のようだった。開け放たれた引き戸から、暖簾越しに灯りが煌々と漏れ出ている。  店じまいの最中に居合わせたのか……? それならなぜ、俺に声を……。 「お声を急にかけてしまって、すみません」  棒立ちになっていた俺に、美女は三つ指揃えてお辞儀をした。綺麗な、45℃だ。俺も仕事で繰り返しているからこそ、すぐ分かる。  美女は、顔を上げた。柔らかい髪を耳にかけ、凪のような美しい笑顔を俺に向けた。心臓が、トクリと音を立て、顔に熱が集まる……こんな夜が来た事は、今までなかった。  俺は何か言葉をかけようとしたが、口をパクパクと動かす事が精一杯だった。美女に、悪く思われてないだろうか。  一抹の不安が過ったが、美女は変わらずに笑顔を浮かべていた。そして、形の良い唇を動かして静かにこう言った。 「この後、何も予定がなければ、少し寄っていきませんか?」
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