死を聴け、生を歌え。

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 リラハープのアルペジオが鳴り響いて、天国への扉が開いた。  天国への扉が開く音は、死者の生前の善行によって異なる。  環境保護活動に長年従事していた老人は、弦が奏でる音色を噛みしめると階段を上り始めた。  女が扉の前に立つと、天使はフルートを奏でた。  彼女は生前、漫画家だった。彼女の作品に感銘を受けて、自殺を思いとどまった少年がいた。あきらめかけた夢を思い出した青年がいた。病室以外の世界を知らない少女の生きる希望になっていた。  赤子の泣き声とともに、扉が開いた。  男の兄とその妻は赤子を遺して事故で亡くなった。男はその遺児が孤児にならぬようにと、引き取った。生活のすべてを幼子のために捧げた。男手一つで育て上げた子は、立派な教師として働いている。やがて子どもは結婚し、孫がこの世に生を受ける1ヶ月前に男は心筋梗塞で死亡した。  男の聞いた声は、男が人生を賭けて育てた「我が子」の過去の声だったのか。それとも、これから生まれる孫の未来の産声だったのか。  オーケストラの音とともに、扉が開いた。  今日、紛争地帯で医療救援活動に従事していた青年が殉職した。青年は神の祝福を受けながら階段を上り続ける。死してなお、青年は世界中の子どもたちが平和な世界で音楽を聴ける時代になることを願った。 *  何もない一本道を歩き続ける少年少女。フードをかぶった少年と、長い髪を三つ編みにした少女。二人は俯いたまま黙って歩き続ける。 「ねえ、知ってる?天国の扉が開く時の音って、人によって違うんだって」 長い道の途中、少女が少年に語り掛けた。少年は黙って首を振る。 「煉獄でも、地獄でも、人によって違うんだって」 少女は続けた。 少女の震える手を少年は強く握り返した。 「それは」 今まで黙っていた少年は意を決して口を開いた。 「……に聞いたの?」 しかし、どこからともなく聞こえてきた電子機器の音声が最初の部分が搔き消した。 「そうだよ」 少年の唇の動きを見つめていた少女は頷いた。 「こうも言ってたの」 少女が話し出すのとほぼ同じ瞬間に、鳥が鳴きだした。鳥の姿は見えない。少年はキョロキョロとあたりを見回した。 少女の声は聞こえなかったが、少年はどこから鳥の声が聞こえたのかはすぐに分かった。 鳥の声が静まった後、彼女は一言だけ言った。 「ごめんね」 *  煉獄の扉が開く音について、ある日、誰かが語り出した。重いドアがギィーと荘厳な音を立てていたと。別の誰かが反論した。いや、引き戸のガラガラという音だったと。  煉獄の住民たちは口々に言う。鍵のガチャガチャという音がやたらと響いていた。いや、あれは自動ドアの音だった。人の声が聞こえた気がする。風の音を聞いた。同じ音を聞いた者に対しては親近感を抱いた。  あるとき誰かが言った。雀の声を聞いた私が、一番善行を積んでいたのではないかと。煉獄の住民は猛反発をした。雨の音の方が大きなスケールだから私の方が天国に近い。いや、よりハイテクな電子音を聞いた私の方が偉い。とても大きな音を聞いた自分を敬え。いや、説明しがたい抽象的な音の方が優れているのだ。  ある女は嘘をついた。雀の声ですって?私なんて生まれ育った村のウグイスの声を聞いたわ。ある男は嘘をついた。自分のときは有名ヒットチャートの音楽だった。人が手を1回叩く音を聞いた者は、大勢の拍手に迎えられたと誇張した。  煉獄では今日も、いさかいが絶えない。嘘をつき、人をおとしめ、争うたびに天国は遠のく。人はなんて愚かなのだろう。天国や地獄とは異なり、煉獄の扉の音は完全にランダムであるのに。 * ここは冥界の道。扉へと続く一本道。 天国、煉獄、あるいは地獄の扉へ一直線。一緒に死んだ少年少女はずっとこの道を歩いている。 間の悪い二人。運の悪い二人。大事な話をしていたのはちょうど煉獄の扉の近くを通り過ぎた時。煉獄の扉から漏れ出る音に、何度も何度も邪魔された。 「私ね、普通の女の子になりたかった」 煉獄を通り過ぎれば、行きつく先は天国か地獄。大多数の平凡な人間とは違う道。 少年の被ったフードの隙間から見え隠れする首筋には縄のような赤い痕。少女の首には成長途中の男の手の痕。 「でもね、私は人殺しになっちゃった」 「違うよ。君の手は汚くない。僕は自分の手で人を殺したんだ」 「違うよ、あなたは殺してない」 きっと私は地獄行き。きっと僕は地獄行き。そう言えば、隣のこの子も地獄に行くことになる。だから地獄と言う言葉は使わない。 「私は自殺したの」 「違うよ、君は殺された。自殺したのは僕」 「あなたの首を絞めたのは私の……」  その時、近くで大きな爆発音がしてまたしても少女の声を遮った。 *  耳をつんざくような爆発音とともに、地獄の扉が開いた。地獄の扉はバックドラフトを起こして、罪人の体を黒く焼き焦がした。  ある中年の耳を不協和音が襲った。中年は幼少期に近所の犬を殺した。学生時代は非行に走った。悪知恵のある男は社会人になって有名ベンチャー企業で若くして死ぬまでに役員に出世したが、犯罪まがいのパワーハラスメントによって精神を深く病んだ者も少なくない。眩暈がするような不協和音に、中年は嘔吐した。それでも、中年は這いつくばってでもこの門をくぐらねばならない。罰を受けるために。  殺人鬼が扉の前に立つと、彼が殺した者たちの断末魔が聞こえた。シリアルキラーはゲラゲラと笑った。殺した者たちの悲鳴を思い出すと、食欲と性欲が刺激される。彼は舌なめずりをした。しかし、彼は知らない。この先、何億年、何兆年、何極年にも渡って拷問を受けることを。彼自身が悲鳴を上げ続けることを。  一目見ただけでは男とも女とも分からぬ、無気力な者が扉の前に立った。形容しがたい恐ろしい怪物の声とともに、地獄への門が開く。この者はどんな罪を犯したのか。答えは自殺である。自ら命を絶つことは、殺人に匹敵する重罪とされている。  魔女のような出で立ちをした老婆が扉の前に立った。彼女は生前、法を何一つとして犯してはいない。扉が開いたが、彼女には何も聞こえない。しかし、突如彼女は血を吐いた。  老婆には聞こえない音波が、彼女の内臓を破壊したのだ。彼女は地獄でも、見えない凶器によって永遠に罰を受け続ける。  人間界の現行法で彼女を裁くことはできない。彼女は多くの人間に呪いをかけ、無数の命と人生を蹂躙した。ある時は身近な人を、ある時は見知らぬ誰かを呪った。悪魔を召喚し、呪いをかけた誰かの運命を嘲笑った。  冥界の裁きにおいて、呪殺はまごうことなき殺人である。 *  ある日、長い髪の少女とフードを被った少年が手を繋いで冥界への道を歩いていた。二人はまだ十六歳だった。少女は多くの人間を殺した。少年は殺人の罪を犯し、自らの命を絶った。  地獄の扉を通り過ぎて歩き続け、彼らがたどり着いたのは天国の扉だった。二人は扉が開く瞬間、お互いの手を強く握りしめて目をつぶった。扉がゆっくりと開き、世界が無音に包まれた。  二人は生前恋人同士だった。どこにでもいるような歌を愛する少女と、少女に一目惚れした少年のありきたりな組み合わせだった。けれども、少女はその身に呪いを受けていた。彼女が声を発すれば、身近な誰かが死ぬ。彼女が天涯孤独の身となったあと、悪魔が彼女に告げた。  彼女は自らその美しい声を封印した。ある朝、別の悪魔が彼女に告げた。お前が声を発さなかった日、この世界のどこかで死ぬ運命になかった誰かが死ぬと。彼女がそれを知ったのは、既に百余りの命が失われた後だった。  毎晩、呪いによって死んだ者の夢を見た。ある時は夢半ばに死んだ新進気鋭のベンチャー企業の若き役員の夢を。ある時は、ウグイスが鳴く村で生まれ育ち、転落死した普通の女の夢を。ある時は、孫の誕生を心待ちにしながら心筋梗塞で死んだ善良な男の夢を。  心優しい少女は、自分は生きていてはいけないと思った。彼女は少年に、手紙を書いた。 「私は多くの人を殺したのに、自分で命を絶つ勇気がないの。私を殺してください」 「僕はセカイより君が大事だ」 「私がもう生きていたくないの」 自責の念に駆られた恋人の最期の願いを少年は叶えることにした。代わりに少年も彼女に一つお願いをした。 「もう一度君の声を聞きたい。その声で僕が死んでもいいから」 愛する人の声に殺されるのならば本望だった。 「あなたが死んだら、きっと私はためらいなく死ぬと思う。でも、私はきっと地獄行きだからもう会えないね」 少女は数ヶ月ぶりに声を発した。その声で少年が死ぬことはなかった。 「君を一人で地獄になんて行かせない。いっしょに逝こう」 「ありがとう。愛してる」  少年は少女を殺した。睡眠薬を飲んで、眠る彼女の首をその手で締めて殺した。彼女が一時たりとも苦しまないように、躊躇はしなかった。素手で掴んだ彼女の首に全体重をかけて殺した。「生」から「死」に変わる瞬間の感触は、あまりに生々しかった。  少年は彼女を殺した後、彼女の長い髪で自らの首をくくって命を絶った。自らを罰するように少しでも長く苦しんでの死を選んだ。少年の最期の涙が彼女の髪に落ちて天の川のように煌めいた。セカイに翻弄された二人の心中は誰にも知られることなく、セカイに再び平穏が訪れた。  呪われた無垢な少年少女を神が裁くことはなかった。少女の呪いによって死んだ者たちは天国へ昇った者、煉獄へ行った者、地獄へ堕ちた者と様々な運命をたどった。少年少女は天国へと迎え入れられた。神は二人のために初めて、音を立てることなく扉を開けた。  少女は誰にも邪魔されることなく、愛の歌を歌った。その歌は、この世とあの世をすべて合わせた世界で一番美しい音だった。  やがて、彼らは生まれ変わるだろう。今度こそ、神に祝福された平凡な少年少女として。
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