Hydrophobia -ハイドロフォビア-

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彼は個室から出て、外気を吸いにデッキに上がった。 後部甲板にはこれからの日没を目当てにしているのか、ちらほらと乗客の姿がある。 このフェリー旅は真夜中に出港して、日中は海上を進みこれからほどなく夜の寄港地に着いて下船になる。 船を降りたら北の町だ、心に定めてきた観光や食事のあれこれの期待と愉しみを前に、船旅の旅情を味わいつくさないと、という気持ちで外の風に当たった。 船体そのもの以外に音が反響するものの無い……あらゆる音が風に吸われたかのように、奇妙な静けさがある。 この場所とこの時でしか体験できない、一人旅特有の感傷的な瞬間がここにあるだろう。 船尾の手すりに腕を置き、翳っていく海面に残さあれてゆく白い航跡を見た。 同じ方向を見ているのは、少し離れたところで同様に手すりに手を置いた高齢の夫婦らしき一組のみだった。 風で二人の声は聴こえてこない。 「良い夕方ですね」 不意打ちの声が彼の耳に届いた。 いつの間にか隣に、手すり越しに海を見る者が一人増えていた。 彼の驚きは唐突な出現の方よりも、声をかけてきた相手を見た事の方が大きい……若く美しい女性だった。 「ええ」彼女に届くようにはっきりした声で答えたが続きが出てこない。 彼女はじっと水平線辺りを見ている。 「それに良い風です」とりあえず言ってみたが自分でも意味が分からないな、と思い付け加えた。「いやなことを吹き流してくれるみたいな」 間が空いて、これは完全に重ねてしくじってるな、と思った。 旅に出て気分が大きくなって余計な事を言おうとしてないか……女性の方から声をかけられて、年甲斐もなく舞い上がってしまった、のか。 が、女性の方は思うところがあるかのように彼に話かけてきた。 「本当にそうなら良いのですが」 盗み見た女性の顔が常人離れした美貌なのは分かるが、細かい表情までは分からない。 ただ声音には愁いがこもってるように思えた。 「この船を降りるまでに悩みを捨て去れれば良いのですけど……観光を気楽に楽しむのが本当は正しいのでしょうけどね、なかなかそういう風にできなくて」 行きずりの初対面を相手に少し話題が踏み入ってきているように思え、彼に少し警戒感が芽生えた。 まさか船上で美人局でもないだろうけど、情緒的に不安定な相手ではないか、と。 例えばここから手すりを乗り越えて海面に……と思い浮かべ、彼はその想像を消した。 目の前で入水などさせられない。 「旅は人それぞれだと思います、正解なんてないでしょう」彼はカウンセラーではないが、危うい方向から相手の気持ちを逸らすように言葉を選んだ。 「私は歌を歌うんですが」聴いているのかいないのか、彼女は遠くを見ながら話した。「私の歌には人の心を動かすことが出来ないのか……ずっとそんなことが頭から離れなくて」 「それはきっと、どんな偉大な歌手でも突き当たる壁なのだと思いますよ」彼は注意深く応じた。「それだけ真摯な姿勢なのだと思いますよ。心を張り続けながら打ち込むのも正しいのかもしれませんけれど、もっと雑駁に考えるのも間違いではないと思うのですよ。それで壁を乗り越えられた時には、また違う風景が見えるかもしれませんし」 女性は彼の顔を見た。 彼は改めて、綺麗だ、と思った。 「私の歌を聴いていただけますか」女性はまっすぐ彼を見て言った。 彼は息を飲んで、そうして頷いた。 きっと彼女の歌は彼の心を動かすだろう……。   * 白い航跡を二人見ていた老夫婦は水音を聴いた気がした。 横を見て、同じ手すりから後方を見ている若い美しい女性が一人、いるのを確かめた。 何か晴ればれとした、悩みを一つ克服したかのような表情がその顔に浮かんでいるのが見えた……。 ——海の魔女たち(セイレーン)がどんな唄を歌ったか、また、アキレウスが女たちのなかに姿を隠したときどんな偽名を使ったかは、確かに難問だが、まったく推測できぬというわけでもない。 サー・トマス・ブラウン " Hydriotaphia " CHAPTER V ==================== ※末尾の引用は、エドガー・アラン・ポオ『モルグ街の殺人』(丸谷才一 訳)より孫引きしました
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