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紗妃の反応に佐藤は驚いたが、一方の汐見は顔色を悪くさせ、項垂れている。
原口と名乗った医師は双方の様子を観察していた。
「……汐見さん……」
そして────
「はぁぐち、せんせぇ? まーまー、どこぉ?」
「……ママは……そこにいる……汐見さんは知ってると思うわ」
「しおみ? ……ってだぁえ?」
ぶるぶると震え出した汐見はもう紗妃を見ることすらできず、折れそうな心と膝を佐藤の肩に手を掛けることで耐えていた。
紗妃は、男4人を前にして原口医師としか目を合わそうとしない。
シーツの上に出ている白魚のような両手が、強く握りすぎて更に白くなり、少し震えている。
「ねぇ、まーまーは? さき、おうちにかえぃたい」
「……そうね、紗妃さん。お家に帰る前に色々やらないといけないことがあるの」
「やぁないといけない? ここ、どこ? さき、なんでこんなとこ、いぅの?」
「……なんで……ここにいると思う?」
「……わかんない……あたま、いたい……」
「そうね。頭に怪我したからここにいるの。ここ、どこかわかる?」
「……びょういん?」
小首を傾げるように原口に答えた紗妃の表情は、いつものあざとさと知性が消え、あどけなさしか残っていなかった。
「そう、正解。すごいね。どうしてそう思ったの?」
「だって……おくすぃのニオイすごいもん。そぇに、せんせぇ? まーまーがいつもつかってぅおくすぃのにおいすぅよ」
「そう……」
病院特有の消毒薬の匂い。アルコールやクレゾールの少しツンとするあの特有の匂いだ。
「このおくすぃね、さきのおうちにもいっぱいあぅよ。まーまーがね、けがしたぁつかってぅの。さきもたまにつかうよ」
アルコールを使う。それは──
「……紗妃さんも使うんだ? そのお薬、どんなときに使うの?」
「まーまーが、おじさんにぶたぇぅとね、つかうの」
佐藤の肩に置かれた汐見の手が小刻みに震えていたが、紗妃が『おじさん』と言った瞬間、ピクっと動いた。
「……おじさん……お母さんはどうしておじさんに打たれるの?」
「おじさんね……『しゃっきんはぁったのはおぇだかぁ、おぇのいうこときくんだ!』ってしょっちゅうまーまーぶつの」
そして、佐藤の肩を握りしめた。もう片方の拳も硬く握られている。
(汐見……お前……)
「おじさん……怖い人ね。……紗妃さんはママとおじさんと暮らしてるの?」
「……うん……さきね、おじさんきぁい。でもぱーぱーがいなくなったかぁ、おじさんといないと、さきがっこうにいけないんだって」
それは、父親がいない中、借金を背負っていた紗妃の母親の、苦渋の選択。
「そう……パパは、いないのね……紗妃さんは今いくつ?」
「さき? さきはね、つぎのおつきさまがくぅと6さいになぅんだよ」
「そうなの。来年、小学校に行くのかな?」
「しょーがっこー、いく! いけぅってまーまーいってた!」
「そう、楽しみね……あ、ちょっと待ってね」
そう言うと、原口という女性医師は、携帯を取り出して電話をしだした。
「はい。はい。わかりました。ええ、大丈夫ですよ」
それは──院内専用のPHSで、にこやかに。【電話してるフリ】をしていた──
芝居がかったその様子を紗妃以外、他の全員がわかっていた。なぜなら、原口が取り出したそのPHSの画面は消えていたからだ。
「紗妃さん。ママね、ちょっと今、遠ぉいところに行ってて帰りが遅くなるんだって。どうする?」
「……さき、ここにいたらまーまーかえってくぅ?」
「そうね。紗妃さん、ママが一緒じゃなきゃ怖い?」
「こ……わくないよ! さき、もうおねぇちゃんだもん!」
「そうだよね。おトイレは自分で行けたっけ?」
「いけぅよ! さきね、もうあんまぃおもぁし、しなくなったよ! すごいでしょ!」
「すごいなぁ~。もうお姉ちゃんだねぇ」
自慢げに話す紗妃の顔は本当に誇らしげだった。
だが、その表情と、その顔の年齢とがあまりにもチグハグで。
汐見が正面から見れない代わりに紗妃を見ていた佐藤は呆然としながら、でも昨日見たあの映像を思い出していた。
(〈春風〉……)
ゆっくりと顔を上げた汐見が、ようやく紗妃の顔を見ることができるようになる。
その目にはすでに涙が滲んでいた。
「さきね、はやくおおきくなって、まーまーといっしょにおじさんち、でぅの! そしたぁね、まーまーをさきが、まもったげぅの! おじさんなんか、ぱんち! ぱんちだよ!」
「そうね……ママは紗妃さんと一緒に暮らしたいと思ってるよね」
紗妃とその母親の細かい話はわからない。
そしておそらく、今の紗妃にこの話を詳しく教えてくれと言われても説明できないだろう。
今の紗妃は【小学校に上がる前、6歳の紗妃】なのだから──
「そうだよ。さきね、まーまーといっしょにくぁすの。おっきい、おしぉみたいないえにね、おっきいいぬさんもいっしょにね、くぁすの! ねぅまえにそういうおはなし、すぅの! まーまーなきむしだかぁ、そのはなしすぅと、ないちゃうかぁ、さきがよしよしすぅのよ」
寝物語に語られた、母との夢物語。
美しい紗妃を形作る、幼い頃の記憶。
その頃の母との生活を覚えている【この紗妃】は、きっと【汐見の知る紗妃】ではない。
『昔のことはあまりよく覚えていない』と紗妃は悲しそうに笑っていたから───
興奮気味に話していた紗妃は、やっと気づいたかのように4人の男性を不安そうに見上げて
「……おじさんたちも、まーまー、ぶつの?」
疑問をぶつけた。その不安は、常日頃、母親が父でもない男性にDVを受けているシーンを見慣れている子供のソレだ。
「「……」」
佐藤と汐見は沈黙した。代わりに柳瀬がいつもより、少しぎこちない表情で答えてやる。
「そんなこと、しないよ」
佐藤は、こんな形で紗妃の幼少期を知ることになろうとは思ってなかった。
汐見は──ほんの少しだけ、紗妃の母親のことを知っていた。
ただ、完全に知っているわけではない。彼女から直接聞いた話は、断片でしかなかったから。
義母も話したくないことだったのだろう。
そして、紗妃はその記憶を何らかの理由で、心の奥深くに鍵をかけて閉じ込めていたに違いない。
誰にも暴かれないように───
「紗妃さん、ママが戻ってくるまで、先生とちょっとだけお話できるかな?」
「……この、おじさんたちもいっしょ?」
そう言われて原口が男4人を見やる。
「この人たちが居たらいや?」
「……いや、かも……」
「じゃあね、この2人のおじさんのうち、どっちか見たことない?」
そう言って佐藤と汐見を手で指し示すと、紗妃は首を傾げながら汐見と目を合わせて
「……このおじさん、さきのおとなぃのおにいちゃんに、にてぅ。けど、おにいちゃん、まだこーこーせーだかぁ……」
そう言った紗妃は、変だな、という表情で汐見をぼうっと見つめている。
汐見がここでようやく紗妃に話しかける。
「……そのお兄ちゃん、の名前、覚えてるかい?」
「うん。きのうもあそんだもん。さきばかじゃないよ」
両方のこめかみに人差し指と中指を当てた紗妃が、ゆっくり答えた。
「おにいちゃんはね、あきひこっていうよ」
「!!」
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