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一昨年の春、寿退社した受付嬢の春風紗妃は社内ではとても有名な女性だった。
社内一の美女を射止めた相手がこの無骨者の汐見だったことがまた社内では有名になり、彼らは一時期、社内で時の人になったくらいだ。
「まぁ……オレが頻繁に徹夜になるのも良くないんだけどな……不安にさせて悪いとは思ってるんだ」
「不安?」
「朝起きてオレが帰ってきてないと……」
「?」
「……割れた食器がリビングの床に転がったままなんだよな……」
「紗妃ちゃんが?」
「……あぁ。こんなこと、お前に言うなんてな……」
驚いた。
その言い方からすると、一回や2回ではなさそうだ。
(そんなことする女性には見えなかったが……)
それよりも、俺は汐見自身の様子が気になった。
「そんな言い方するな。……お前は大丈夫なのか?」
「オレ? オレ……は……」
言われてはじめて自分を認識した、みたいな顔をしてる。
ここで既婚者である汐見を抱きしめるのはマズい。マズいが──
(……自覚してもう七年以上になる……)
俺は汐見の嫁の紗妃よりも、汐見潮とは四年も付き合いが長い。そしてその分、俺の想いの方が強いし重い。その自覚も自信もある。
だが、衝動のままに行動して汐見を困らせるのは本意でもない。
だから俺は汐見に、親友として大事に思ってる、と解るように、だがそれ以上に周到に汐見が俺を頼ってくれるよう持ちかけた。
「……紗妃ちゃん、良い子だよな。何かお前に言い出せないってことかな……」
「……あぁ」
「夫婦だって言えないことの一つや二つくらいあるさ。お前だって紗妃ちゃんに言えないこと、あるだろう?」
「……」
「あまり気負い過ぎるなって。何かあったら俺も相談に乗るよ。お前、結婚してからつきあい悪くなったし」
うつむいた汐見の表情が見えなくなる。
「気分転換に紗妃ちゃんも3人で一緒にどっか行くか?」
「……そうしたいのは山々だが……紗妃が落ち着くまで、もう少し待つよ」
───何かを諦めたような顔で言うな。
今にも泣き出しそうな顔で俺を見るな。
お前がそんなんだと一年前の俺の決意が鈍るんだ。
お前には、わからないだろうが。
「それはそうと、煙草、やめたのか?」
「あ、あぁ。やめたっていうか電子に換えた。紗妃が嫌がるから……」
「そうなのか。お前あんだけヘビースモーカーだったのにな」
「まぁ、いつかはやめないとな、って思ってたから良いきっかけにはなったな」
「……ニコ中自慢してたやつが」
「中毒自慢はマズいよな……ハハッ……」
今日は笑顔に失敗してばかりいる汐見を見て、胸が苦しくなる。
(こんなふうに笑う奴じゃなかったよな、お前……)
「……オレたち今、妊活中でさ。そういうの敏感になってるんだ、あいつ……」
【妊活】という単語を汐見から聞いた瞬間、俺の頭でその単語が木霊した。
そしてその後の話はもう覚えていない。
(そう、そう、だよな……こいつは違う……オレとは……)
「まだ20代なんだから……そんな急がなくてもいいのにな……」
まっとうな人生、普通の家族。
父親と母親がいて子供が居る家庭。
そういう【家族が欲しい】と願う汐見潮の隣に居るのはオレのような同性の男ではなく【子供が産める女性】でなくては。
(だから、オレは……)
「佐藤? どうかしたか?」
「い、いや、なんでもない……」
危うく、持っている糖分多めの缶珈琲を落っことすところだった。
(想像したくないな……こいつが……〈春風〉と……)
想像するならもっと、こいつが狂うくらい濃厚なシーンがいい。
(帰ったら久しぶりにあのDVDでも観るか……)
汐見似の男優が、あの手この手で施されて何度もイカされ身も蓋もない言葉で乱れ狂ってるAVだ。
「あ、俺そろそろ行くわ。とりあえず、お前もちゃんとガス抜きしろ。社内一のイケメン・営業ナンバーワン様の俺がつきあってやるから!」
「あ、ああ! わかった! 連絡する!」
「おう!」
そう言って、俺は休憩所を後にした。
その日のその後、あいつに何が起こるのかも予想できずに────
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