235人が本棚に入れています
本棚に追加
『これから二次会……まぁいいんだけど……』
『なにか予定がありましたか?』
『いや、そうじゃなくて……』
汐見は言い淀んでいたが、銀縁のメガネの丁番部分をクイッと右手の親指と中指で持ち上げた。
『あ~……飲み直したいのは山々だけど……シャワーでも浴びてさっぱりしたいな、と……』
『あ! そ、そうですよね!』
俺の代わりに酒をかぶった汐見のことを考えてなかったことに、自分が相当酔っていることをようやく自覚した。自己嫌悪におちいった俺がため息を吐くと。
『まぁ、僕の家は徒歩10分ほどだから。……佐藤くんさえ面倒でなければうちで飲むかい?』
『え?! マジですか?! あっ、しまった……!』
思わず馴れ馴れしさが漏れてしまって口を押さえた。
『ははっ。タメ口でも大丈夫だよ。僕は26だけど、佐藤くんは……24? だっけ?』
『え! なんで知ってるんですか?!』
次々と予想外の返答が返ってくるのでこっちが目を白黒させていると
『君は有名人だからね』
『え、っと……』
『まぁ、じゃあ僕の家まで歩きながら話そうか』
『あ、はい……』
そう言って、汐見は濡れた服一式を適当なビニールの買い物袋に入れ、いつも持ち歩いているノートパソコンが入ったA4サイズのカバンを掴んで帰社を促した。
俺と汐見は、スーツの上から厚手のコートを羽織って社外に出た。
若干酔いが醒めたせいか、年末の寒さにブルっと震え、ふと、さっきまで濡れ鼠だった汐見に思い至った俺は(本当に誘ってよかったのだろうか)と後悔していた。
それなのに汐見はメガネをかけててもわかるくらいニコニコしていた。
『しっかし、意外だな~』
『え? 何がですか?』
『うわさってのは当てにならないな、って』
『?』
『僕は今日まで直接佐藤くんを知らなかったから、又聞きでしかなかったんだけど』
『……』
『君についてのうわさはかねがね耳にしていたよ』
うわさがどういう類いのものかは聞かなくてもわかる。
だけど、有能な汐見の口から直接、そういうネガティブな自分自身の陰口を聞くのは嫌だった───
『 「優秀すぎるあまり先輩の目の上のタンコブになってる営業マン」て、聞いた』
『!!』
あまりにも優しい婉曲表現に、俺は若干泣きそうになった。
『僕の開発部と佐藤くんがいる営業部は隣接していないけど、遅い時間ならどの部署に人がいるかくらいわかるんだ』
『それって……』
『僕がこちらに転職してから、佐藤くんを夜遅い時間に見かけたのは7回程度? だったかな。他の人は帰っていて誰もいないのに、必死にディスプレイと睨めっこしてなかったか?』
『……それ、見てたんですか……』
この時期の俺は、自分の転職後、持ってる案件を誰かに引き継ぐためのドキュメントを作成していた。隠れて転職活動をしていたため、就業時間中にやって同じ部署にいる人間に内容を見られ、変な詮索をされるのが嫌だったからだ。
まぁ正直、勤務時間中は今やってる仕事で手一杯でそれどころじゃなかったというのもある。だから、部内の全員が出払ったのを確認してから作業をするようにしていた。もちろん退勤のタイムカードを押してからだ。
『営業の仕事内容は詳しく知らないけど、他の人が就業時間中にしない業務をこなしてるってことだろ?』
『い、いえ、あの、その……』
業務外、しかも転職前の事前準備をやっているから就業時間後だったのだ。だけど、それを評価してもらっていることが心苦しくなった。
でも、 ”転職を考えている” という話を今ここで初対面同然の汐見に言うのは筋違いじゃないかとためらわれた。どうしようかと思っていると
『何をしたって悪く言う人は悪く言う。全世界の人に好かれる人間なんているはずがない。それに、優秀な人間は抜きん出ているがこそ……周囲にいる人の嫉妬や羨望から足を引っ張られることが多い。大きな組織にいる優秀な人間の宿命なんだろう……』
『し、しおみ、さん……』
ここで俺はとうとう泣き出してしまったのだ。
最初のコメントを投稿しよう!