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 ベルの音が遠くでする。朔夜は意識が再び沈みそうになるのを堪えて、音の発生源を探した。  この音はスマホのアラームだ。今日は一限からだから起きなきゃ、と思いかけてハッとする。  慌ててアラームの音を止め、画面を確認した。時刻は八時半、日付は十月二十七日、金曜日だ。手に持っていたはずの時計は、どこを探してもない。 「まさか本当に巻き戻った……?」  朔夜はそのままブラウザアプリを開き、『きょう』と入力する。すると優秀なスマホは、十月二十七日と予測変換候補を表示したのだ。 「……まじか。ってか、準備しなきゃ!」  飛び起きてベッドから降り、部屋から出てキッチンに向かう。一誠と同じ大学に行くために、下宿先は家賃を優先した。なので交通の便は悪く、早く家を出ないと間に合わない。  コップに水道水を汲み、それを一気に飲み干す。時間短縮と食費削減で朝食は摂らない。部屋に戻って着替えて肩掛けカバンを掛け、また部屋を出て今度は洗面所へ行く。顔を洗って濡れた手で寝癖を直したら、顔を拭いて出かける準備は完了だ。  家を出るとまだ涼しかった。秋らしくなっていく空気になぜか切なくなり、乗った自転車のハンドルをぎゅっと握る。  朔夜はコンビニに寄ると、新聞紙を取る。普段は読まないし、そもそもコンビニなんて寄らないけれど、今日の日付を確認して、本当に時間を遡ることができたのだと確信した。だとしたらこの一週間、自分は一誠を諦めるためにできることをするんだ、と改めて決心し、コンビニを出る。  そこから自転車で二十分。一限目の授業の講堂に入ろうとすると、早速一誠と槙人に出くわした。 「おっす朔夜」 「お、おはよ……」  顔を見るなり笑顔を見せてくれる一誠に、朔夜は不覚にも泣きそうになった。心からの笑顔を向けてくれる、そう思うだけで諦めようとしていた気持ちが簡単に折れそうになる。 「昨日アップされてた動画、見たか? ホントあのひと、面白いよなー!」  一誠と並んで歩き出し、肩が触れる程距離を詰められる。槙人は、黙って後ろをついて来ていた。  こう並ぶと、いつも通りだなと朔夜は思う。もう戻ることができないと思っていた日常に、何度も目頭が熱くなりながら過ごした。  明るくて、誰とでもすぐに仲良くなれてしまう一誠。女の子とより、男と遊んでいた方が好きだし楽だ、と言う彼の言葉に安心していた部分があった。実際一誠は男友達が多かったし、だからといって、女の子に冷たく接するなんてことはしない。いい奴なのだ、本当に。 「食べる?」  学祭準備でみんなが研究室に集まった頃、隣に座った槙人にグミを差し出される。ザラメがついたグレープ味のグミで、朔夜の好きなお菓子だ。 「あ、サンキュー」  朔夜が袋からひとつ取って口に入れると、槙人は満足そうに目を細めた。彼は一誠とは違って、大学に入ってから仲良くなった。大人しいけれど、ひとのことを絶対悪く言わない、こちらもいい奴だ。 (だからこそ、あの時色々言われてカッとなっちゃったんだよな……)  今度は喧嘩しないようにしないと、と思いながらも、やっぱり視線は一誠に向かってしまう。ダメだダメだと自分を戒め、一誠を見そうになったら景色を見ることにした。 「朔夜ー、肝心の屋台の売り物、仕入れ日忘れんなよ?」  ふと、一誠が肩を合わせるように座る。その距離感にドキリとしながらも、朔夜は頷いた。朔夜たちは屋台でドリンク屋をやる予定で、朔夜のバイト先がスーパーなのをいいことに、メインの品物調達に任命されたのだ。 「分かってるよ」  朔夜がそう言うと、一誠はこのあとこう言うのだ。「うっかりする時もあるけど、何だかんだ頼りになるもんな」と。そして肩パンされるのだ。 「お前うっかりする時もあるけど、何だかんだ頼りになるもんな。仕入れの時は連絡しろよ? 手伝うから」  記憶通りにそう言われて肩を叩かれる。本当に、時を遡ったんだな、とまた目頭が熱くなった。 (ダメだ)  自分は一誠を諦めるためにここに来たんだ。こんなことでいちいち泣きそうになっていたら、同じ道を行くことになる。何とか堪えて笑顔を作ると、バイトだからと先に帰る一誠を見送る。 「じゃあ俺らは、明日買い出しに行くもののチェックをしようか」  槙人が対面に座った。背が高くて、身体が細長い印象がある彼は、性格の大人しさもあって、あまり威圧感はない。リストを読みやすいようにこちらに向けた彼だが、それだと見にくいだろうと朔夜は横に向けた。 「釣り銭用の小銭は、別でもう用意してくれてるみたいだから。あとは看板用の板と絵の具、それから……」  槙人の話を聞きながら、ああ、こっちもいつも通りだ、としみじみする。これらの道具をどこで調達するかを確認し、終わったところで帰ろうと誘われるのだ。 「……よし。進捗も予定通りだし、明日の買い出しだね。寝坊するなよ?」 「う、頑張ります……」  いつもギリギリまで寝ている身なので、大学には遅刻することもしばしばだ。槙人に釘を刺され、朔夜は首を竦めると、彼は笑って立ち上がる。 「じゃあ、無事起きられたら今日あげたグミ、ひと袋あげる」 「え、マジ?」  これも記憶通りだ、と朔夜は喜んだ。一誠とみんなで食べよう、と言うと、槙人はまた嬉しそうに笑う。今更ながら、こんなに笑うひとだったっけ? と思ってしまった。  槙人は、朔夜が一誠に片想いしていることを知っている。槙人と出会った頃にそれとなく聞かれて、正直に打ち明けた。優しくて穏やかな槙人なら、この秘密を共有してもいいかなと思えたのだ。だからこそ、学祭で告白することを反対され、ムカついてしまった訳だけれど。 「朔夜は本当に一誠が好きだね」 「な、何だよいきなり……」 「ううん。さ、帰ろう?」  男に恋している男を、軽蔑することもなく普通に接してくれる槙人を、朔夜は信頼していた。微笑ましく見守られている感じがくすぐったくて、照れ隠しに朔夜も立ち上がる。 「オレ、槙人と友達になれてよかった」 「そっちこそ、いきなりどうしたの?」  クスクス笑う槙人はそれ以降、嬉しそうに歩くだけだ。記憶通りの光景に、朔夜は記憶とは違うことをしたらどうなるのだろう、と興味が湧いた。  試しに、槙人に好きなひとはいないか、聞いてみようとした。長身で優しいのに、女っ気がないので興味はあるのか気になったのだ。 「……」  しかし、声が出ない。この事実に朔夜の背中がゾワッと寒くなった。  ――ただ単に時が巻き戻っただけじゃないのだ。  過去と違うことをしようとすると、身体が動かなくなる。初めて知った事実に朔夜は焦った。  このままでは同じことを繰り返すだけじゃないか。 『後悔しているなら、やり直せばいいんですよ』  あの怪しい男の言葉が(よみがえ)り、朔夜は唇を噛む。過去と違う行動ができないなら、どうやってやり直せというのか。  まずいぞ、と思う。たった一週間に設定したことを後悔した。あんなに心が痛いことは、もう経験したくない。 「……あまり思い詰めちゃだめだよ?」  槙人から降ってきた言葉に、ハッと彼を見上げると、彼は苦笑していた。記憶と同じセリフなのに、感じ方がまるで違うのは、朔夜がこの先の展開を知っていて、その辛さを知っているからだ。  朔夜はどうでもいい話をして誤魔化す。記憶では「大丈夫だよ」と笑って言ったはずなのに。もしかして、大筋が変わらない程度なら言動を変えられるのかも、ということに思い至った朔夜は、言動を変える時は慎重にならないとな、と決心した。
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