54人が本棚に入れています
本棚に追加
1
「きゃぁっ!」
長いエスカレーターを少し上ったところで女性が足を踏み外した。その瞬間、体格のいい長身の男が僕の前に素早く躍り出る。そうして「ドーンと来い!」と待ち構えたところで、背中から落ちてきた女性を見事にキャッチした。
「アキラくん、ナイスキャッチだ」
パチパチと手を叩いて褒めてやる。すると、つられたように周りにいる人間たちからも拍手がわき起こった。
「大丈夫?」
立たせながらアキラくんが女性に声をかけた。
「はいっ。あの、ありがとうございます……っ」
「大きな荷物を持った人が多いから、気をつけて」
「は、はい……っ」
女性が落ちるきっかけになったのは、空いていた右側を駆け上がった男性の荷物が当たったことだ。女性自身も大きな荷物を持っていたから、バランスを崩して踏ん張ることができなかったのだろう。
そうして落ちてきたところをアキラくんがキャッチした。体が大きくて力も強いアキラくんじゃなかったら受け止めることなんてできなかったに違いない。
「やれやれ。どうして都会はどこもかしこもエスカレーターの片側を空けて乗るんだろうな。そうして空いているところを駆け足で上っていく人間も多い。だからいまみたいなことが起きるのだと予想はつくだろうに」
「おかしな慣習ほどなくならないものだよな」
助けた女性の視線を感じながらエスカレーターに乗る。僕が乗ったすぐ後ろにピタリと体をくっつけるようにアキラくんが乗ってきた。
「この前も危うく落ちかけた女性を抱き留めただろう? その後女性がアキラくんに見惚れるところまでがワンセットだな」
「そうだったっけ?」
先ほど助けた女性もアキラくんを見た途端に頬を赤らめた。なんなら「お礼にお茶でもどうですか」と言わんばかりの表情だった。それを思い出すとほんの少しムッとしてしまう。
「おうちゃん、もしかして機嫌が悪い?」
「別に。それにおうちゃんなんて呼ぶな。僕の名前は桜士郎だ」
「そう呼んだら怒るくせに」
「この時代にそぐわない名前は変に目立って嫌なんだ」
「じゃあ、やっぱりおうちゃんだ」
アキラくんの言葉にハァとため息をついている間にエスカレーターが到着してしまった。敏感なんだか鈍感なんだかわからないアキラくんに呆れながら歩き出したところで、足にコツンと何かがぶつかる。振り返ると足早に改札口へと向かう女性の後ろ姿があった。人混みを気にすることなく引っ張っているキャリーがロングブーツの足先にぶつかったのだろう。
「おうちゃん」
アキラくんの手が伸びてきて僕の右手を掴んだ。そのままギュッと握り締め、隣においでと言うように引き寄せる。
「俺の隣にいれば誰にもぶつからないよ」
「アキラくんくらい大きいと相手が避けてくれるだろうからな」
「そうそう。俺、便利でしょ?」
チラッと隣を見上げると、真っ黒で優しい目が僕を見下ろしていた。
(たしかにこれだけ混み合っていると、そうしたほうがいいかもしれない)
世の中はクリスマスということで、どこもかしこも賑わっている。いつもならこんな人混みの中に出かけようなんて思わない。それでも今年は特別だからと、アキラくんと連れ立って大きな街にやって来た。
(ま、たしかに便利といいたくなるくらいアキラくんは大きいが)
鏡のように磨かれたショウウインドウに映るアキラくんは、相変わらずいい体つきをしている。そのせいか誰もがぶつからないように避けていた。
大方の人間はアキラくんの大きさに最初はギョッとする。続けて顔を見上げた途端に大半の女性は頬を赤らめた。
(あまり目立ちすぎるのも善し悪しか)
アキラくんはどんな人混みの中でも頭一つ分飛び出るほど大きい。おかげで物理的に見失ったことはこれまで一度もない。防御壁だけでなくいい目印でもあるというわけだ。代わりに僕以外の視線も集めてしまう。
それに比べて僕はアキラくんの肩ほどしか背丈がなかった。全体的な作りが小振りだからか、アキラくんと手を繋いでも違和感がない。
(恋人に見えるならまだしも、兄弟なんて思われていたら最悪だな)
さすがに親子には見えないだろうが……見えないことを祈る。ショウウインドウを見ながらそんなことを考えた。
「今日のおうちゃんもかわいいよ?」
「……急に何を言い出すんだ」
「じっと見てるから、かわいい自分を確かめてるのかと思って」
「誰がそんな恥ずかしいことをするか」
「俺が選んだコートも帽子も似合ってるし、今日は一段とかわいいと思うんだけどなぁ」
アキラくんの言葉に、もう一度ショウウインドウを見た。
コートはアキラくん一押しの薄桃色で、袖口と裾には真っ白でフワフワなファーがついている。モフモフのマフラーとお揃いの真っ赤な帽子は暖かいし、たしかにどこからどう見てもかわいい。
(寒いのにどうして短パンなんだと思ったが、バランス的にはこれが正解なんだろう)
それにコーデュロイだからか短パンでも意外と暖かかった。ロングブーツと尻が隠れるくらいのコート丈を考えるとベストな選択だと僕にもわかる。やや女性っぽく見えなくもないが、ずっと僕を見てきたアキラくんの見立てだからか完璧なほどかわいい。
「まぁ、かわいいとは思う」
歩き出しながらぽつりと感想を述べる。
「おうちゃんは見た目どおりかわいいのが好きだよね」
それは違う。正確にはアキラくんがかわいいと言ってくれるものが好きなんだ。だから服も小物も部屋着もパジャマも、アキラくんが「かわいい」と言って選んだものしか身につけない。
「あ~、やっぱり満席だ」
アキラくんの声に、いつの間にか目的地に着いていたことに気がついた。窓の向こう側の店内は見ているだけで酔いそうなくらいの人で溢れ返っている。
ここに来る前、駅直結のコーヒーショップにも行ってみたが行き交う人の多さに立ち止まるのも諦めた。それなら大通りを渡って駅の向かい側まで行こうかとやって来たこの店も、結局は混み合っている。
「すし詰め状態だな」
「ここ、チェーン店の中でも日本一混んでるって聞いたことがあったけど、本当っぽいね」
なるほど、そう言われると納得できる混雑具合だ。
「別に店内じゃなくてもいいぞ」
歩行者専用の通り沿いにある店だからか、周りを見ると花壇のへりに座って飲んでいる人間たちも多い。日中で太陽が出ているいまなら外で飲んでも寒くないからだろう。
「ま、たまにはそういうデートもいいか。ちょっと待ってて、買って来るから」
アキラくんが店内に入るのを見届けた僕は、テラス席から少し離れた花壇の前に移動した。
(これが本当のデートならよかったんだけどな)
僕とアキラくんは恋人というわけじゃない。だからさっきのセリフが言葉のあやだということはわかっている。それでも「デート」と言われると何だかこそばゆくなった。アキラくんは護衛契約のために僕から離れられないのだとわかっていても、「デート」と言われるだけで胸がときめいてしまう。
(でも、今年こそはそれを現実にしてみせる)
固い決意を示すためにいつもと違う行動を取ることにした。今日は特別な日なんだと訴えたくて、こうして普段なら絶対に来ない雑多な人混みにも来ている。それが何だと言われればそれまでだが、「僕はこんなことができるくらい大丈夫なんだから噛め」と訴える意味で人混みを選んだ。
(そう思っていたんだが、結局はこの有り様だ)
人混みが得意でない僕は、少し歩き回っただけで人間酔いしてしまう。おかげで何もしないまま休憩先を探すことになった。そのことを残念に思ったものの、アキラくんの「デート」というひと言で気持ちが上向く。
(結局、僕はアキラくん次第ということか)
ため息をつきながらも口元がにやけそうになる。それを誤魔化しながら、少し高さのある花壇のへりに座ってアキラくんを待った。
(アキラくんは僕のことを好きだと言ってくれている。それなら問題ないはずなのに、なぜ噛んでくれないんだろう)
アキラくんとは主従関係だが、僕はとっくにそんな垣根は越えている。アキラくんだって主以上に思っていると言ってくれた。それなのに噛もうとしないアキラくんに、つい「噛め」と命令してしまうが、それでも頑なに噛もうとしない。
しかし今夜こそ噛ませてみせる。特別なこの日に噛んでもらうために両親にも許可を取っておいた。「今夜こそ絶対だ」と決意しながら目の前を通り過ぎる人間たちをぼんやり眺める。
「ねぇ、一人?」
声をかけられて気分が急降下した。視線を向けると若い男性が二人立っている。年は十代後半か二十代に入ったくらいだろう。まぁまぁの服装にほどほどの背丈、顔は……そこそこといったところか。
「一人なら一緒に遊ばない?」
「ご飯とかお茶とか、それともカラオケにする?」
口調からして、こういうことに手慣れているのだろう。
(その割には性差を見誤っているがな)
そういえば最近の人間たちは性差を気にしなくなったと兄たちが話していた気もする。
(どちらにしても、この僕に軽々しく声をかけるとは)
特別な日だからと気が緩んでいたのかもしれない。そうでなければ、こんな輩に易々と声をかけられたりはしないはずだ。
「ここじゃ寒いよね? 暖かいところに行こうよ」
そう言いながら一人が目の前にしゃがみ込んだ。おかげで顔がよく見えたが「その程度か」という感想しかない。
(顔はそこそこより少し下、といったところだな)
人間の中ではほどほどかもしれないがアキラくんには到底及ばない。「そんな顔をわざわざ見せるとは」と、ますます気分が悪くなる。
「気安く声をかけるな」
「はぁ?」
「え? なに、きみそういう系?」
そういう系とはどういう系だ。言いたいことがあるなら、きちんと説明できる言葉を使え。
「おまえらごときが声をかけてよい相手ではないということだ」
「な……!」
「おまえ、なに調子に乗っ……」
視線を合わせると男性の声がプツリと止まった。隣で眉を吊り上げていた男性の動きもピタリと止まる。
「疾く往ね」
僕の言葉に二人ともフラフラと離れて行った。
「まったく、無礼者が」
「本当だよ。おうちゃんに気安く声をかけるなんてとんでもない人間たちだ」
二人の背中を見送っていた視線を反対側に向けると、両手に紙コップを持ったアキラくんが立っていた。
「お待たせ。声をかけてきたのは、あの二人だけ?」
「うん」
「ま、二人くらいなら許してやるか」
隣に座ったアキラくんから紙コップを一つ受け取る。くんと嗅ぐと甘い香りがした。
「これは?」
「ええと、なんとかホワイトチョコ……なんとか?」
「それじゃ何か全然わからない」
「長くて覚えられなかったんだよ。でも季節限定って書いてあったから、たぶんクリスマス用じゃないかな」
ひと口飲むと、たしかにホワイトチョコらしき甘さが口に広がる。
(なかなかよい味わいだ)
こうした人間の食べ物を口にしたところで僕の栄養になることはない。それでも口にするのは、人間が作り出す嗜好品の味わいが好きだからだ。とくに僕はこのチェーン店のコーヒーがお気に入りで、季節限定なるものを密かに楽しみにしている。アキラくんに言わせれば「コーヒーっていうかスイーツじゃない?」ということらしいが、コーヒーを使っているからコーヒーと呼ばれているのだろう。
ちなみに僕はチョコレートも好きだ。たしかこのターミナル駅の地下にもお気に入りの店舗が入っていたはずだから、帰る前に寄ってみるのもいいかもしれない。
「この後どうする?」
「もう人混みには戻りたくない」
「じゃあ帰ろうか」
アキラくんの言葉にコクリと頷く。
「帰りはずっと手を繋いでおこうね」
「なぜだ?」
「俺とくっついていれば誰にもぶつからないし、無礼な奴に声をかけられることもないでしょ?」
たしかにアキラくんがそばにいれば、そのとおりになるだろう。だからと言って、わざわざ手を繋ぐ必要があるんだろうか。
(……そうか、デートだからか)
デートは手を繋ぐものだ。それなら手を繋ぐのが正しい。
「俺、いろいろと便利でしょ」
優しく笑っている黒目を見て、それから何とかという名前のコーヒーをひと口飲む。気のせいか、先ほどよりもずっと甘く感じた。
最初のコメントを投稿しよう!