九月

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九月

「この人の写真好き?」  リディーはカメラを片手に持ちながら、隣に腰掛ける。距離の近さに、僕はまた甘い香りに翻弄され始める。 「初めて見たけど好きだよ」 「私はこの写真が好き」  リディーはパラパラとページを捲って、写真を見せた。 「ドアノーの一番有名な写真で、『パリ市庁舎前のキス』っていうの。いつ見てもドキドキする。こんなキスをされてみたいな」  恋人が街中でキスをしている瞬間を写しただけなのに、とても美しい。市庁舎前を移動する通勤途中のせわしない人々の中で、恋人たちだけがゆっくりと時を刻んでいるように見えた。 「ねえ、トーゴはキスをしたことある?」  リディーが僕の顔を覗き込んで訊いた。 「彼女なんていないし、したこともないよ」  僕は気まずくなって目をそらしながら、彼女の質問に答えた。 「ふーん。トーゴならたくさん女の子が寄ってきそうなのに意外。教えてあげようか」  リディーが急に顔を寄せたから、驚いて腰掛けていたソファの手すりからずり落ちてしまった。 「冗談に決まっているじゃない」 「おかしいんじゃないの。いきなりそんなことを言うなんて」  からかわれたのに腹を立てて睨みつけると、リディーは寂しそうな顔をした。 「本当だったら困るでしょ」 「……別にキスくらい困らないよ。子どもじゃないんだから」  そう言いながらも、僕はリディーの顔をまともに見られないでいた。だって、そんなことを言われて、意識するなというほうが無理だ。 「ふーん、そう。じゃあ目を瞑って」 「こういうのって逆なんじゃないの」  僕は鼓動の早まりをごまかすように言った。 「だって、トーゴは初めてなんでしょ」  リディーは僕の目を手のひらで覆って隠した。心臓の音が耳に響き、甘い香りが目眩をおこさせる。唇に柔らかいものが触れ、瞼を押さえていた手のひらが僕の首に回された。  快楽で心の痛みをごまかすべきじゃないと思いながらも、心地よさに身を任せてしまいたくなっていた。
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