六月

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「楽にしていていいよ。また勝手に撮るから。ねえ私ね、『I say a little prayer』が好きなんだけど、歌える?」 「曲はわかるけど、歌詞を覚えていないよ」 「残念。じゃあCDをかけてもいい?」  リディーは、カメラのファインダーを覗きながら訊く。  僕は曲に合わせて、ソファの前にあるコーヒーテーブルをパーカッション代わりに叩いてリズムを取りだした。 「トーゴって器用ね」  サビの部分を口ずさむと、リディーは不満そうに口を尖らせた。 「なんだ。歌えるんじゃない」 「サビだけね」 「トーゴって、歌うときすごくいい表情をするのね」 「自分じゃわからないよ」 「最近クロードの様子がなんか変なんだよね。他に好きな人でもいるのかな」  突然クロードの名前が出てきて、大きく心臓が飛び跳ねた。 「会いにも来てくれないなら、別れちゃえば」 「そうだよね。でも好きなんだ、彼のことが」  苛立ちを感じた。他人の男と付き合っているツバメにも、クロードという浮気者にも、そんな奴と別れられないリディーにも。そしてなにより、リディーの言葉にやりきれなさを感じる自分に。 「ごめんね。今日は上手く写真が撮れないみたい。また今度にしてもいい?」  リディーはゴトンと音を立てて、カメラをテーブルの上に置いた。 「いいよ。じゃあ今日はもう帰るよ」  僕が立とうとすると、リディーは寂しそうな顔をした。 「もう帰っちゃうの」 「だって、写真は撮らないんでしょ」 「そうだけど。もう少しいたらいいのに。最近、美しい世界が見えないの。パリの街も人も、すべてが色褪せて見える。私が見ているのは、本当に前と同じ世界なのかな。クロードを失うだけじゃなくて、写真まで撮れなくなるのかもしれないと思うと、すごく怖いの」  そう言って涙を零すリディーを、僕は抱きしめずにはいられなかった。  永遠の愛を願う歌が流れ続けている。僕には愛なんてよく分からないけれど、リディーの幸せそうな笑顔は見ていたいとは思った。
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