第05話「これ本当にあの人ですか?」

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第05話「これ本当にあの人ですか?」

「おお、よしよし。ここが気持ちいのか? ほら、どうだ?」 「に、にゃぁあ……」  さりさりと喉元をくすぐる指先は、確かに葵が知る以外と男らしくゴツゴツとしたそれだ。しかしその力加減は絶妙で、まるで赤子を撫でるかのように優しい。いつも墨を引いたように消えない眉間の皺は見当たらず、刃のように鋭かった目付きがとろんとしている。  喉元を撫でられると気持ちいいのだが、それ以上に困惑が勝っていた。 (だ、誰!? いや、分かるんだけど。どう考えても別人としか思えない……。いままでこんな顔したことなかったじゃない!)  目を糸のように細め、ニヨニヨと頬を緩ませる男。糊のきいた皺ひとつない洋装も、今朝見送ったばかりだ。だが、どうしてもその表情があの鉄面皮と結びつかない。  葵は、目の前の男が冷泉洸哉であることを信じられないでいた。 「そんなに怖がらなくていいよ。怖いくない、痛いことはしない。ほら、ごろごろー」 (何がごろごろーなの!? なんかめちゃくちゃ饒舌じゃない! 今朝の仏頂面はどうしたのよ!?)  その豹変振りはもはや驚きを通り越して恐怖すら覚える。砂糖を煮詰めたような甘ったるい猫撫で声が、あの低い音を発する喉から出ているとは思えない。しかも洸哉は地べたに躊躇なく膝をつき、上質なズボンが汚れることにいささかの躊躇もないようだった。 (こ、こいつ……。もしかして、私のことに気付いてない?)  ひとしきり驚いた後、葵はふと気付く。自分はいま三毛猫になっていて、まだ洸哉にはこの姿を見せていないはずだ。彼が森の奥の屋敷を訪ねてきた時も、直前まで三毛猫の姿で日向ぼっこをしていたが、彼はそこまで見ていない。  ということは、彼は自分をただの野良猫だと思っているのだろう。というか、猫の正体が葵だと分かっていてこんなに可愛がってくるのなら、もはや怪談の域である。  向こうが気付いていないと思えば、急に心が軽くなる。ただの鉄面皮で無愛想な男だと思っていたのが、まさかこんな一面を持っていたとは。少し微笑ましくすら思っていた。 「なーん」 「はぁああっ。可愛い声だねぇ」 (アンタも随分な声出してるわよ)  軽く鳴いてみせるだけで洸哉は全身を震わせて悶絶する。元々の容姿が良いだけに、それすら絵になる。三毛猫を可愛がる洋装の美青年という珍しい光景に、周囲に軽く人垣すらでき始めていた。 (これだけ可愛がられるなら、家でもこの姿でいようかしら)  化け猫である葵にとって、猫への変化は息を吸うようなものだ。人の屋敷で暮らすなら人型である方が何かと便利なだけである。  洸哉がここまで喜ぶのならいっそ三毛猫として暮らそうかとも思ったが、直後に彼女は思い返す。自分は冷泉家の嫁として家を出たのだ。愛玩動物になるのは、化け猫の矜持としても頷けない。  そもそも、屋敷でこの姿を見せれば、自分がこうして脱走していることも露呈してしまう。 (絶対にばれないようにしないと……)  自分が猫質であることを思い出し、葵は決意を固める。急にぴんと耳を立てた三毛猫に何を思ったのか、洸哉は緩み切った顔でわしゃわしゃと頭を撫でた。 「せんぱーい!」  葵が洸哉の大きな手でもみくちゃにされていると、人垣の向こうから明るい声がする。それにぴくりと耳を動かした洸哉が、一瞬にしていつもの鉄面皮に戻り、すっくと立ち上がった。  おや、と葵が顔を上げると、ちょうど人をかき分けて見知らぬ青年が姿を現した。洸哉と同じように軍服に似た綺麗な制服を着ているが、その顔立ちはまだあどけなさを残している。癖のついた茶髪が、どこか犬のような雰囲気を醸している。 「なんだ、金橋」 「なんだじゃないですよ。こんなところで何やってるんですか」  やはり二人は顔見知りらしく、洸哉は葵も馴染みのある冷たい声で青年の名を口にする。今なら葵もなんとなく分かるが、猫を可愛がっていたところに思わぬ邪魔が入って少し機嫌が悪いようだ。  しかし金橋青年はそんな洸哉の機微に気付く様子もなく、やれやれと肩をすくめている。 「式札忘れたんでしょう。早くそれ取りに戻って、現場に行きましょう」  どうやら、洸哉は忘れ物を取りに屋敷へ戻る途中だったらしい。 (いや、仕事中に何してるのよ)  道端の猫を可愛がっている場合ではないだろう、と葵はあきれる。思わず「なぁん」と声まで漏れたが、洸哉はぴくりと動きかけた手を握りしめて誘惑に耐えていた。 「おや、猫じゃないっすか」 「にゃあ」  その段になって、金橋はようやく洸哉の足元でくつろぐ三毛猫に気がついた。葵が挨拶程度に軽く鳴き声をあげると、彼もしゃがみこんで指先で優しく額を撫でてきた。それがまた絶妙な力加減で、葵もついつい喉を鳴らす。  面白くないのは洸哉である。 「おい、金橋。さっさと行くぞ」 「ええっ!? 先輩だって撫でてたんじゃ――」 「勤務中だぞ。さぼるな」 「じ、自分のこと棚に上げて!」  眉間の皺をさらに濃くして、ツカツカと歩き出す洸哉。金橋は慌ててその背中を追いかける。葵はそんな二人を、憮然とした顔で見送った。しかし直後に、洸哉たちが屋敷に向かっていることを思い出し、慌てて自分も立ち上がる。 (万が一書庫に居ないことがバレたら怒られる!)  葵は猫の身体能力を存分に活かし、町家の屋根を駆けるのだった。
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