第9話「深まる疑惑、広がる亀裂」

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第9話「深まる疑惑、広がる亀裂」

 屋敷へと戻った葵は、焦燥のまま服を着て、よろよろと書庫の外に出る。人の姿に変化しても、その顔色は隠せない。様子のおかしい彼女を見て、女中はすぐに異変を感じ取った。 「葵様、いかがなさいましたか? お体の調子が優れないのでしょうか」 「大丈夫よ。……大丈夫」  心配そうに声をあげる女中をあしらい、私室に戻る。ひとりきりになれば、少しだけ落ち着くこともできた。しかしそれと同時に、不安も胸の内で膨れ上がってしまう。  自分はただの猫質。猫宮家と冷泉家の関係を周囲に示すための証に過ぎない。そう思い、納得していたはずなのに。洸哉が花街に通っているという話を聞いた、ただそれだけでここまで取り乱してしまうとは。  葵は失意に暮れながらも、ぐるぐると思考を巡らせる。衝動のままに幽楽庵を飛び出してしまったことを、今更ながら後悔していた。  洸哉が花街に通っているという話は、迅の口から語られただけだ。今日出会ったばかりの鎌鼬のことを信頼してもいいのだろうか。しかし、彼の言葉を二瓶たちも否定はしなかった。であれば、やはり……。 「葵様」 「きゃっ!?」  悶々としていたところ、不意に戸の向こうから声がする。葵が驚いて耳と尻尾を出しながら顔を向けると、遠慮がちに薄く戸が開き、奥からミヨの細い指が覗いた。 「ミヨでございます。葵様の様子を窺いにまいりました」 「だ、大丈夫よ。少し本に集中しすぎただけだから」  言い訳をする葵だが、ミヨもそれでは安心しない。布団を用意しましょうか、という彼女の提案を、葵はぶんぶんと頭を振って固辞した。  しかし、ミヨの去り際。葵はふと気になって呼び止める。 「ねえ、ミヨさん」 「何でございましょうか?」 「その……。洸哉さんは、普段どんな仕事をしているの?」  昔から洸哉の身の回りの世話をしてきたという彼女ならば、鎌鼬よりもよほど信用が置ける。そんな思いから、葵は一縷の望みを掛けていた。 「洸哉様は調伏師として、軍に寄せられる怪異の報告に対処なさっております。陰陽寮が軍務省に取り込まれて久しいですが、年々調伏師の数も減っているようで、日々ご多忙な暮らしに身を置いておられます」  葵様との時間が思うように取れないのも、仕事の忙しさ故なのです。と、ミヨは申し訳なさそうに頭を下げる。それについては気にしていないと葵が言うと、老齢の女中は感激したように目を細めた。  しかし、これで迅の言葉にも反論が浮かんだ。日々莫大な業務に忙殺されているならば、そう気軽に花街へ通うこともできるわけがない。あの鎌鼬は信用ならない、と葵は心の手帳にしっかりと書き込んだ。 「ごめんなさいね。書庫で夫が浮気をして、花街に通うような内容の本を読んでしまって。少し心配になったのよ」  不安が払拭された喜びに笑みを浮かべて葵が言う。  だが、その時だった。 「そ、そうでしたか……」  ミヨの目が一瞬泳ぐ。その違和感を、葵は細かに感じ取ってしまった。 (え? その反応って、どういうこと?)  不穏な気配が、再び滲み出してくる。洸哉は仕事に忙しくて、花街に通うような暇はないと、さっき分かったばかりではないか。それなのになぜ、ミヨは気まずそうな顔をしているのか。 「ね、ねえ、ミヨ。――洸哉さんは今日、どこへ行っているの?」  思わず口から飛び出した。葵は頼むような気持ちで、ミヨの口が開くのを待つ。  しかし、冷泉家に長年仕えてきた女中は、さっと睫毛を伏せて顔を逸らしてしまう。 「申し訳ありません、葵様。坊ちゃんの仕事は秘密の多いものですので、私の口からは何とも申し上げられないのです」  絞り出すような声は、葵を満足させるものではなかった。むしろ、彼女の不安に揺れる心に、止めを刺すようなものだった。 「――そう、ですか」  不思議と悲しみは引いていた。絶望も感じていない。事実が決定的になってしまったからだろうか。  葵の胸中にふつふつと湧き上がり、やがて全てを支配するほどにまで膨らんだのは、烈火の如き怒りの炎だった。 「葵様! ち、違うのです。坊ちゃんは決してそのようなことは――」 「ミヨ。洸哉さんが戻ったら、二人で話します。ごめんなさい」  ミヨが目を潤ませ、首を左右に振る。  だが、半人半獣の恐ろしい姿へと変化した葵に、強く否定することもできない。彼女は泣きそうになりながら、ただ額を床にすることしかできずにいた。  もはや葵の中で疑念は捨て切れるほどのものではなくなっている。ミヨや他の女中たちが何と言おうと拭えない。であるならば、当人同士の話し合いでなければ、決着は付けられない。 「居間で待たせてもらうわ。夕食は後でいいから」  静かな怒りだけを胸に、葵は屋敷の中心へと向かう。周囲全てが敵であり、自身が孤立無援であることを知りながら、彼女は正々堂々と問いただすことにした。  洸哉にかけられた疑惑が真実でるならば、もはや人と妖の歩み寄りなどと言っている場合ではない。すぐにでも実家と連絡を取り、父親を呼び寄せる必要があった。  葵は女中たちが震えるほどの鬼気迫る怒気を纏い、ただ静かに座る。  ――だが、その日。冷泉洸哉はまるで葵の怒りを察知したかのように、夜遅くになっても帰ることはなかった。
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