人工月

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 らしくない言葉だ。  本当に言うつもりなんてなかった。伝わるとも思っていなかった。ほんの、古いおまじないのつもりで呟いたのだった。 「『月が綺麗ですね』」 「あれは人工月よ、西野くん」  前を歩いていた彼女は振り返って、いじわるそうな笑みを浮かべながらこちらを見てきた。僕が何か間違えると、彼女はいつも手を口元に当ててからかうように笑う。 「こっちが本物の月」  彼女が指す方をよくよく見ると、確かに僕の背後には薄っすらと円状のものが浮かんでいた。本物の、月。それはお世辞にも綺麗とは言えず、弱々しい光を幽かに放ってそこに在るだけだった。形骸化した存在、とでも言うべきか。──自己主張もせずそこにじっと在るだけのそれに、一瞬自分が重なった。……僕は臆病だ。 「三十年前からだっけ?あの月が空に浮かんでいるのは」  鈍感な彼女は僕の気持ちなんか露ほども知らずに、無邪気に自分の両手を双眼鏡に見立てて覗きこんでいる。 「……うん。隣の国が、街全体を明るくして電気代を節約するために打ち上げたんだって。教科書に載ってた」 「近未来史なんてまだテスト範囲じゃないのに」  相変わらず色々知ってるのね、と偽物の月をぼんやりと眺めながら僕の一歩前を行く彼女の横顔は照らされていて、夜なのにはっきりと見えた。不安になるくらい真っ白な肌は、眩しすぎて目が眩んでしまいそうだった。 「電気代の節約かぁ……あんなに派手なのに目的は意外と地味なのね」 「わからないよ」  僕は立ち止まって、不気味なほどに煌々と輝き続ける月を見据えた。表面に兎の模様まで入れてあるのだから変に小洒落ている。止んだ足音に気付いた彼女も遅れて足を止めた。きっと不思議そうな顔でこちらを見ているのだろう。 「それは建前で、実際は人工月をきっかけに宇宙空間を自分の国の領地にしようとしているのかもしれない。それとも、あの月が放っている光はただの光じゃなくて、人体に何らかの悪影響を及ぼすものだったりするかもしれない。例えばそれは浴び始めてから数年は何も起きないけれど、十年…二十年…五十年もしたら、今まで蓄積された分が飽和量に達して突然発病する。──……って、根拠もないのにここまで言うと開発した人たちに失礼だね」  つい長々と語ってしまったのを誤魔化すように笑って見せた。きっと彼女には退屈だっただろう──そう思って前を向くと、彼女は真剣な顔つきをしていた。まるで何か大切なことを考えているようだった。 難しいことは苦手としている彼女らしくないその表情に、僕は吸い込まれるようにして魅入られた。  ……どのくらい見つめていたのだろう。いつの間にか向こうもこちらに気付いたらしく、少し驚いたようにはにかみ、静かに目を伏せた。 「──そうね」柔らかな唇が、ゆっくりと開く。 「もし、西野くんの言う通りだったとすると、私たちは生まれる前からあの光を浴びていることになるじゃない? ……もしかしたら、私たちは大人になる前に死んじゃうのかもしれないね」  〝大人になる前に死んでしまう〟──いつも笑顔でいる彼女の口から死について語られるのは、なんだかとても恐ろしいことのような気がして、僕は思わず叫んでしまいそうになった。『そんなことを言わないでくれ』と。声は喉元まで出かかったが、晴れやかな顔で微笑む彼女を目の前にして消えた。 「……でもね、私は思うの」偽物の月に背を向け、彼女は言った。 「西野くんがずっと隣に居てくれるなら、私は大人になれなくても……『死んでもいいわ』」
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