第2話

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第2話

 軽い眠気に襲われ気が遠くなり始めた頃、ドアをノックする音が3回響いた。 「どうぞ」伊達が返事をするとすぐにドアが開き、男性と女性が1人ずつ入ってきた。 「伊達さん、ご無沙汰しております。お元気そうで…」と男性がニヤッとしながら話しかけると、 「山路さん、旅行記憶なんかやっていると笑わないでくださいね」伊達がその表情を見て言う。 「伊達さんは普通の人がやらない事件などの危険な転送のイメージが強くて…」沢山配線が伸びている、ラグビーのヘッドギアみたいなものを伊達の頭に被せながら山路が応えると、 「山路さんだって犯罪の記憶転送は身体に悪いと良く知っているでしょう。僕だって一応人間なので息抜きが必要なんですよ」山路の作業を邪魔しないように目だけを動かしながら言うと、装置の調整をしていた女性が伊達の視線の隅で小さく笑った。 「ほら、初対面の人にも笑われてしまったじゃないですか…」伊達は山路の方へ眼を向けて言った後、 「はじめまして、『危険物取り扱い者』の伊達といいます。よろしく!」今度はその眼を女性に向けて冗談を言った。  ヘッドギアの装着が終わると次に酸素マスクが着けられ、栄養補給装置の点滴のような管が腕に繋がれる。  先ほどエレベーターの所で別れた水野も今頃は客用の豪華な部屋で伊達と同じようにヘッドギア、酸素マスクに栄養補給装置という具合に準備をしている筈だった。  すべての準備が終わると酸素マスクから極めて少量の麻酔が送られ水野はその後5日間、伊達が転送装置を通じて送る旅行記憶を半覚醒状態で楽しむ事になる。  記憶には毎日の豪華な食事シーンも含まれているので現実の身体へは腕の血管を通じて栄養を送り、途切れることなく5日間の旅行を楽しめるようになっていた。  全ての準備が終わり、伊達がベッドで横になると壁のインターホンが「ピロピロッ、ピロピロッ」と呼び出し音を響かせた。 「はい、こちらは準備完了です」女性がすぐに受話器を取って応答した後、「客室の方も準備オーケーです。始めて下さい」と山路に向き直って告げる。  山路はベッドの伊達を見て、 「伊達さん。じゃあ、始めます」マスクから伸びる管の先にある機械のスイッチをいくつか順番に押した。  伊達は目をつぶり、声を出してカウントを始める。 「1、2、3…、4……、…5………」その声が途切れると山路が記憶転送装置にある丸いボタンを押す。  その装置の中央に取り付けられた画面に「転送中…」という文字を表示し、その横にある緑色のLEDが信号の送信に合わせてチカチカッ、チカチカッと点滅し始めた。  記憶転送装置は夢を映像化する研究に使われていた『高密度脳波分析装置』を改良したもので元々、夢を見ている時や記憶したものを思い出している時の脳波を読み取る為の機械であった。  その後の研究で、夢を見ている時の脳波を特別なデジタル信号に変換した後、頭に取り付けた電極を通じて別の人へ送ると同じ夢を見られるという技術が確立され、実験ではそれが記憶として残る事も判った。  やがて、それを商売にしようとする者が現れると旅行記憶を転送する『メモリートラベル』が開発された。  しかし、当初は記憶を転送される側、つまり記憶の受け手が普通の状態で転送していた為、送られる旅行記憶のデジタル信号が実際に聞こえる音や目から入る光などによって歪められ不完全なものになってしまう事が多かった。  不完全なものになるだけなら大した問題ではないが、転送中の記憶が現実の大きな音などの刺激で余りに悲惨なものや恐ろしいものに歪められてしまうとそれによって人格が崩壊してしまう危険があった。  過去に、ただの旅行記憶の受け手が精神に異常を来すという事故が連続して起きた事があり、原因を検証した結果、大きな音による聴覚の刺激で転送中の記憶が恐ろしいものに歪められてしまった事が判明していた。  その事実によって記憶の転送中は受け手が無意識の状態に置かれるべきと考えられるようになり、麻酔によって意識が働かないようにして転送を行う現在の方法が確立されたのだった。  また、件数は少なかったものの転送された記憶を更に別の人に転送する『再転送』でも同じような事故が起きた為、それについても実験でその安全性が検証されることになった。  実験はある人の記憶を10人へ転送し、その記憶を再転送で元の人へ戻すという方法で行われ、その内容にどんな違いが出るのか検証された。  その結果、記憶の鮮明度は受取る側の記憶力の良し悪しで大きく変わる事と内容も思想や感じ方によって歪められ大きく変わってしまう事が判明し、通常の転送と同様に危険だとされた。  現在は記憶力に優れ、物事を正確にそして冷静に見る為の訓練を積んで資格を取得した者が行う事になっているが、伊達のように資格を持つメモリーハンターが少ない為、再転送は限られた人しか出来ないのが現状だった。  23歳の時の事故でそれ以前の記憶を全て失い、帰る場所すら分からなくなった伊達は『光明園』という回復施設で暮らしていたが、診察にやって来る青木という精神科医に記憶を取り戻す訓練になるからと勧められ、治療の一環としてメモリーハンターの養成所へ通うことになった。  養成所で行った訓練は複雑な物体を短時間で記憶した後、何も見ずに形や色などの要素を詳細に答えねばならないといった難しいものばかりだったが、伊達は通い始めるとすぐに慣れて好成績を叩き出すようになる。  その後、1年以上続けたが記憶は一向に戻らず、代わりにメモリーハンターとしてスカウトされて会社に勤めることになった。  記憶を失った伊達の脳は過去の蓄積がない分とてもクリアな状態で転送された記憶を過去の似ているものと混同したり歪めてしまう事がなく、再転送では指折りの正確さと鮮明度を誇った。  勤めていた会社では入社後わずか11ヶ月でトップクラスの売り上げを達成し、鮮明で正確な記憶転送ができるメモリーハンターとして伊達を指名してくる顧客を沢山抱えていた。  顧客の評価の割に給料が少ないと感じた伊達は1年半程働いた後、独立してフリーのメモリーハンターとなり現在に至っている。  自分は過去の記憶が無い分正確な転送が出来るのだと知っていた伊達は記憶を取り戻すことを諦め、メモリーハンターとして生きて行く事にしたのだった。    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  5日後、再転送を終えた伊達は顧客の水野と再び記憶トラベルズの待合室にいた。  水野が旅行記憶の内容について、 「どこもかしこも想像以上の高級な造りで感激しました。そして、沢山のセレブと共に屋上のプールから眺める景色も最高でした」満足しながら言うと、 「どんなに金を積んでも、セレブの紹介なしでは予約できないドバイの一番高級なリゾートですからね。ご堪能頂けて良かったです」伊達は笑顔で応え、「代金は見積もりの通り、80万円ですが領収書の宛名はどうします?」と続けて訊いた。 「領収書は要りません」水野はそう言ってバッグからスマートフォンを取り出すとアプリに80万円と入力し、伊達のスマートフォンに送金した。 「ありがとうございます。確かに頂きました」自分のスマートフォンを確認した伊達が小さく頭を下げて礼を言うと、 「こちらこそ楽しかったです。機会があったらまた、お願いします」水野は笑顔で告げ、ガラスのドアを押して出ていった。 「ありがとうございました。またお越しください」水野が開けたドアを横にいた高木が左手で押さえながら深々と頭を下げた。 「じゃあ、高木さんこの通り、10万円を送りました。領収書はメールでください」伊達はスマートフォンでその会社宛てに送金した画面を見せるとドアを押して外に出る。 「ありがとうございました! 伊達さん、危険物にはくれぐれも気を付けてくださいね…」頭を下げながら冗談を言う高木に小さく手を上げた伊達は大股で通りに向かって歩き始めた。
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