第36話

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第36話

「圭一、なんて事を言うの! もう一度言ってみなさい!!」立ち上がった久美子は再び手を上げながらそう怒鳴った。  床に仰向けで、これ以上ないと言うくらいに目を見開いたまま固まってしまった伊達の頭の中で突然、「パンッ!」と何かが音を立てて弾けた。  思わず瞑ったその瞼の裏に父親の和美の顔が蘇り、 『お父さんなんか死んじゃえ!』と言う子供の声が耳の奥から聞こえ、『バシッ!』とビンタされた頬の感触と共に『圭一! もう一度言ってみなさい!』久美子の怒鳴り声が頭の中で響いた。  それは伊達が2歳の時の記憶だった。  母親の久美子からたった1度だけ叩かれた時の、その記憶が蘇ったのだ。  再び何かが「パンッ!」と弾け、今度は自分が遭難した山の中の景色が瞼に浮かぶ。 「パンッ」「パパンッ、パンッ」「パパパパンッ」と頭の中でポップコーンのように次々と弾け、そのたびに様々な記憶が蘇る。  学校でいじめられた事や飼い犬のゴロー、幼稚園の運動会や高校受験など、でたらめな順番で蘇りその後、きちんと並んでいく。  頭の中が次々に弾ける記憶で一杯になっていき、伊達は何も考えられず何も出来ずにただ頭を抱えて蹲るしかなかった。  廊下を走る大勢の足音と外側のドアを慌ただしく開ける音が聞こえた後、すぐに内側のドアが開いて10人程の警備員がなだれ込んで来くる。 久美子は落ち着いた声で、 「圭一はもう落ち着きました。私は擦り傷だけで治療の必要はありません」静かに言うと替わりの着替えを頼んだ。  伊達は警備員達によって再び拘束衣を着せられそうになったが久美子が頑として断った為、頭を抱えて床に蹲ったままだ。  知らせを聞いて青木がやって来たら今起きた事を説明しなければならないと思ったが、もう何も出来ない程に疲れ切ってしまった久美子は食事用の窓から受け取ったパジャマに着替えて再びベッドに横になった。  すぐに気が遠くなったように感じて眠りに落ちた。  数時間寝たのかそれとも数分なのかは分からなかったが、再び気配を感じて目を開けると先程と同じように伊達の顔がすぐ目の前にある。  だが、久美子にもう怖いものはなかった。  覚悟して目を閉じず、伊達の大きな目をじっと見詰めると薄っすら涙が湧いてくるのが分かった。  やがてその目が悲しみ帯びると、そこから大粒の涙が溢れ出して久美子の顔を雨のように濡らしていく。 「…母さん……」伊達が静かに言うと、 「圭一!………」驚いた久美子はそれ以上何も言えなくなった。 「母さん、記憶が、ついに記憶が戻ったんだ」伊達はそう言うと久美子を抱きしめる。 「良かった……………」久美子は最後にそう言うと気を失った。 「母さん! 母さん、しっかりして!」伊達は久美子を両腕で抱き上げると急いで病室の入口へ行き、足でドアを蹴飛ばし始めた。 「早く、早く誰か来てくれ!」そう叫びながら蹴飛ばし続けると先程と同じようにドアが開き、警備員達がなだれ込んできた。  久美子を両腕で抱いて仁王立ちの伊達に、 「静かにしろ、動くんじゃない!」状況が分からない警備員の1人がそう言い、持っていた警棒のようなものを振りかざす。 「違う、母が気を失ったんだ。早く医者に診せてくれ!」伊達が喋るのを見て全員が驚き、 「正気に戻ったのか?」と警棒の手を下ろしながら言う。 「僕はもう大丈夫だ、だから母を早く!」伊達のまともな答えにようやくその警備員が 「ストレッチャーを持ってきてくれ。医務室に連れていくぞ!」皆に向かって大声で指示を出した。  久美子を抱いたまま、ドアの外へ運ぼうとすると、 「病室からは出られません。ここでお待ちください」警備員が両腕を広げて制止するので、伊達は言われた通り待つことにした。  1分後、久美子はストレッチャーに乗せられて医務室へ連れて行かれた。 「医務室で応急処置をし、すぐに病院へ移送します」と警備員に告げられた伊達は 「分かりました。容体がわかったら教えてください」そう応えてそのまま病室で大人しく待つと、30分後に連絡を受けた青木がやって来た。 「伊達さん!……」そう言ったきり言葉に詰まる青木を見て、 「青木さん、ついに記憶が戻りました。でも、母が…」心配そうに告げると、 「たった今、救急の対応ができる大きな病院に搬送しました」伊達を見詰めてそう言った。  伊達は青木が知りたいだろうと、 「僕の記憶は殆ど戻っています。母にビンタされたのがきっかけでした。今は目が覚めたばかりの様な感じで少し混乱してはいますが…」と早口で説明するが、 「それは後で詳しく聞かせてもらいます」とそれには耳を貸さず「お母さんのことは私が責任を持って対応し、病状についても分かり次第お知らせします」そう言うと「今すぐお母さんの元へ行きたいでしょうが私が退院の許可を出すまでは我慢してください」申し訳なさそうな表情で告げ、速足に出て行った。    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  次の日、青木と共に病室へやって来た吉田警部が 「伊達さん、記憶が戻られたと聞きました」と嬉しそうに笑顔を見せる。 「はい、でも母が…」伊達が言葉に詰まると、 「青木さんに代わり、今日から私がお母さんに付き添いますのでご安心ください」警部はすぐにそう応えた。  警部の隣にいた青木が 「伊達さんの様子を数日間観させてもらい、異常がなければすぐに外出の許可を出しますが…退院は病院長の同意が必要なのでもっと先になってしまいます。申し訳ありません」と済まなそうにするので 「それが決まりなら仕方ありません。まともになった自分を解ってもらうための時間が必要なんですね…」と伊達は諦めたように言って下を向いた。  病院で付き添いを始めた警部は久美子を担当する医師に呼び出された。 「他の病院で病気の治療中って事はないですかね?」テーブルの向かいに座る、太田という医師から訊ねられた警部は久美子の発言に何度か違和感を持った事を思い出した。  そしてすぐに、伊達の治療を急いでいたのはその病気が理由だったのかも知れないという考えに辿り着く。 「本人にはまだ確認してないんですね?」警部が訊くと、 「まだ意識がはっきりしていないので…。勿論、訊ける状態になればこちらでも確認しますが…」困ったように太田が答える。 「検査で何か出たのですか? 治療が必要な病気の…」心配になって再び訊ねると、 「がんの疑い…。というか、その可能性がかなり高いです」と太田は答えた。  警部はそれを聞いて取り乱しそうになったが、久美子から感じていた違和感がこれだったのなら手遅れになる前に判って良かったのだと自分に言い聞かせ、 「では、機会を見つけて確認してみます」となんとか落ち着きを保って告げた。  谷中の住所が判ってから久美子に会うまでの8日間、毎日電話したにも関わらず一度も繋がらなかった事を警部は思い出し、それが病気のための検査もしくは治療だったのではないかと疑った。  そして、伊達の治療を「命懸け」と言って急いでいた事を考えると、久美子はすでに自身の病気が何かを知っていて、治療中か治療のための入院が必要なのかも知れないと思った。  病室でそんな事を考えていた警部がふと、ベッドを見ると久美子が目を開けていた。 「久美子さん、気が付いたんですね」警部がベッドの側に立ってその顔を覗き込むと久美子の口が小さく動いたが、酸素マスクが着けられているので耳には届かない。 「なんですか?」マスクを少し持ち上げて訊くと、 「圭一は…、圭一はどうですか?」なんとかそれを聞き取った警部は 「記憶は全部戻ったと言っていました。そして、もう大丈夫だと…」よく聞こえるように耳元で伝え、「何も心配はいりません。圭一さんはすぐに退院できますよ。今度はお母さんが回復に努めないとないといけませんね」警部は久美子が他人ではないように感じながらそう励ました。 「ところでお母さん、何か病気の治療をしていますね? 先生が教えて欲しいそうです」続けて訊くと久美子は目を瞑り、首を横に振った。 「お母さん、正直に言ってください」再び訊ねたが何も言わないので、「では、自宅を調べさせてもらいますがよろしいですか?」警部は令状なしでそんな事はできないと解っていたが聞き出す為に嘘をついた。  すると、 「…すい臓がん…の末期で…」やっと聞こえるような小さい声で言う。 「じゃあ、治療はどの病院で?」警部が訊き返すと大学病院の名を告げた。  急いで医師に伝えようと病室を出る警部に 「あの子に伝えてください…」急に大きな声で久美子が言った。  ベッドの側に戻った警部が再び覗き込むようにして耳を澄ますと、 「息子と離れ離れになっていた、その時の事を話してくれるように…伝えて…」消え入るように話して目を閉じた。
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