第9話

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第9話

 次の日、伊達は1日中ベッドで過ごしていた。  昨夜は空が白んでくるまでずっと悪夢というか幻覚みたいなものに悩まされ、ただ眠れない夜を過ごすよりも疲れてしまい朝になっても起きる事ができなかった。  夕方まで水分を摂る事もトイレに行く事も出来ずにベッドの中で過ごすと、ようやく動き出す気力が湧いてきた。  食事を作ろうと起き上がり、ペペロンチーノを2人前作って食べた後、エスプレッソコーヒーを淹れてゆっくり味わうとようやく気分が落ち着いた。  何も考えずにいると昨日、10歳の少女から転送された犯罪の記憶とそれよりもっと恐ろしい幻覚が脳裏に蘇り、どうしようもない程の恐怖に襲われてしまうのでコジロー捜しの方法を考えて気分を紛らわす事にした。  犬の写真を見ようとスマートフォンを持ち上げた時、その手の中で電話の呼び出し音が鳴り出した。 「伊達です。お疲れ様です」すぐに応答すると、 「ペット探偵の藤岡です。目撃者を見つけました!」嬉しそうに話す大きな声が響いてきた。 「どこですか?」伊達が訊くと、 「千葉県の浦安です。写真の首輪をしていた犬を見たと言うんです。他にもそれらしい情報がありましたが、そっちはちょっと疑わしくて…」と言葉を濁した後、「その目撃者から記憶転送してもらいますか? それとも他の目撃者を見つけてからにしますか?」藤岡は伊達の判断を待つ。 「そうですね…何人かの情報をすり合わせてその先の事を考えるのが良いと思います。3人位見つけてから転送してもらいましょうか」伊達がそう言うと、 「分かりました。では、引き続き目撃者を探します」藤岡が電話を切った。  伊達は暫く手の中のスマートフォンを見ていたが、何かに気づいたようにダイヤルし始めた。  電話の呼び出し音が数回なった後、 「はい、光明園です」明るい声で応答する中高年女性の声が響いてくる。  伊達は慣れ親しんだその声に 「片瀬園長、ご無沙汰しています。圭一です」見えないと分かっていながら思わず笑顔で言うと、 「あら、圭くん。元気にしてた? こっちも最近は色々と忙しくなってね…」まるで親戚のような対応で勝手に近況を話し始めた。  話が一段落したところで、 「今日は相談があって…」伊達がそこまで言うと、 「何も遠慮しなくて良いわよ。記憶が戻って家族に会えるまではここがあなたの家で私はあなたの母親なんだから」園長が笑いながら優しく言った。 「そちらに、17歳の頃の楽しい記憶を持っている女性はいませんか? 僕に転送して貰いたいんです」伊達にそう訊かれた園長は、 「仕事でそんな記憶が必要なのね…。えーっと、この園で働いている娘の中に4人位はいるかしら」そう言うと、「皆、まだ20代だから記憶もそんなに古くなっていない筈よ」転送について何かで知識を得たらしく、記憶の鮮明度についても付け加えた。 「さすが園長さん。記憶転送についても詳しいんですね」伊達が嬉しくなってそう言うと、 「昔と違って様々な状況の子がこの園にやってくるから…、私も色々勉強しないとならないのよ」と少し困ったような口調で応える。 「明日、誰かに来てもらう事は可能ですか? 場所は東銀座の駅前です」伊達が祈るように訊くと、 「それなら明日が休日の娘に頼んでみましょうね」すぐに帳面をめくる音がした後、「ちょっと待ってね!」そう言うと保留にしていないコードレスフォンを持ってどこかへ走る音が聞こえた後、受話器を手で塞いだのか誰かとモゴモゴ話す声になった。 「大丈夫よ。明日なら何時でも良いって」モゴモゴしていた会話が急に園長の大きな声になって伊達は少し驚いたが、 「ありがとうございます。じゃあ、時間は後ほど連絡します」電話を切ると青木の医院へ13時の予約を入れ、再び光明園に連絡して待ち合わせの場所と時間を伝えた。  翌日、約束した時間より早く医院へやって来た伊達に 「何故、あの子のためにそこまでするんです? ただ可哀想なだけとは思えないんですが…」と青木が不思議そうに訊く。  伊達は何かを考えるようにちょっとの間を置いて、 「いや、何でなのか本当に自分でもよく分からないんです。ただ麻理ちゃんが可哀想に思えて…」歯切れ悪く答えると、 「伊達さんが考えている通り、楽しい記憶が事件の辛い記憶を不鮮明なものに変えてくれるでしょう。でも、あの子がそれを拒むかも知れないんですよ」青木は心配そうに告げ、「どんな転送も脳に負担を掛けることには変わりないので無駄なことはやらない方がいいんです。いつもの伊達さんらしくないな、今までクールにやってたじゃないですか」納得のいかない表情をした。 「記憶の内容を十分吟味し、相応しいものだけを麻理ちゃんへ転送すれば彼女に危険が及ぶことはないですよね。それで彼女が回復出来るなら脳に少し負担が掛かるとしてもやる価値はありますよ」そう言って引き下がらない伊達に青木が渋々ながら転送を了承した。  光明園のスタッフから転送して貰った、誕生日などの楽しいイベントや旅行の記憶を後で伊達が思い出し、青木とその内容を精査して再転送するのに適したものをいくつか選んだ。  全てを終えた伊達は明日、午前の診察に同行させて貰う事にして医院を後にした。    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  次の日、青木が病室のドアをノックすると、 「どうぞ…」部屋の中からは前回とは違う、突き放すような返事が返ってきた。  青木に続いて病室に入った伊達が 「麻理ちゃん、また様子を見にきたよ!」笑顔で言うと、 「伊達さん…コジローは?」表情を固くしたまま訊いてくる。 「ペット探偵の藤岡さんという人に頼んで目撃者を探している所だよ。見つかったらその目撃記憶を転送して貰い、それを手掛かりに捜す事にしているんだ」伊達はあえて明るく言ったが、 「そうですか……」麻理は下を向いて黙った。  青木がいつもの診察を終えると麻理の顔を見て、 「伊達さんが麻理ちゃんのために楽しい記憶を集めてきてくれたんだ。麻理ちゃんが望めば再転送出来るけど、どうする? それで事件の記憶が薄れれば精神的に楽になると思うよ」青木が反応を見ながらゆっくり話すと、 「他人の記憶は必要ありません。家族との記憶も変えたくない…」静かに言うとベッドの毛布を頭の上まで引き上げて、 「もう私の家族はコジローだけなの…私を理解してくれるのも…。記憶だけの幸せなんていらない」と涙声で訴えた。  青木は黙ったまま伊達を見るとその顔をわずかに横に振り、諦めるように促した。  病院からの帰り、自動運転タクシーの中で青木が口を開いた。 「事件で命からがら生き残ったと言うのに誰も引き取ろうとしないのは麻理ちゃんが隠し子だったからで、彼女は親戚の皆から疎まれていたようです」 「本当のお母さんは事件で殺された人とは別の人なんですね。今どこにいるのか判っているんですか?」伊達が驚きながら訊くと、 「銀座のクラブに勤めていたホステスで真面目な人だったようです。麻理ちゃんが2歳の時に病気で亡くなると父親がすぐに彼女を認知して引き取り、揉め事はなかったと聞いていますが親戚は皆、反対していたらしいです」と青木が答えた。 それを聞いた伊達は彼女にとって本当の家族は事件のずっと前から芝犬のコジローだけだったのかも知れないと思い、麻理がさらに可哀想に思えた。 「早くコジローを捜し出してあげたいな。あの子の回復のためにも…」伊達が自分に言い聞かせるように呟くと、 「私も今、麻理ちゃんに必要なのものはコジローだと思います」青木が大きく頷いた。
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