雨の話

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雨の話

 ある雨の日のことでした。仕事を終えたひとりの男が真っ直ぐの道を歩いていたんです。その途中に、左の袋小路へ続く脇道があるんですよ。いつもなら何も気にせず通り過ぎるんですが、その日は何となく左の道へ視線をやったんです。  すると、奥の突き当りに見慣れない家がありました。あそこにあんな家があっただろうか。男は記憶を辿ってみましたが、思い出せませんでした。まあいいか。男はそれをあまり気に留めず、思い出したように家路を急ぎました。  翌日。仕事を終えた男はまたいつもの帰り道を歩きます。脇道を見てふと昨日のことを思い出し、何気なくそちらへ視線をやりました。男は驚きました。昨日あったはずの家がなかったんです。奥の突き当りはただの空き地でした。何度見ても、そこに家などなかったのです。  きっと仕事で疲れていたから何かを見間違えたのだろう。そう無理矢理納得する以外、男に出来ることはありませんでした。男は気を取り直して、再び家路を急いだのでした。  それから数週間後。その日は雨でした。男は見慣れない家のことなどすっかりと忘れていたんです。しかし、脇道に差し掛かったところで、急にそのことを思い出しました。まさかとは思いつつも、ゆっくりと脇道に目をやります。すると。  あったんです。見慣れない家が。  見間違いか。そう思った男は何度も目を擦りましたが、やはり建物がそこにあるのです。おかしい。そんなことがあるはずない。あの家は一体何なのか。それを確かめるべく、男は脇道へと足を進めました。  近くまで寄ると、それは確かに家だったんです。築五十年はあろうかという二階建てのボロ屋で、まるで最初からここにあったのだと言わんばかりの風体でした。玄関の扉は開きっ放しになっており、覗いてみましたが中は真っ暗でよく見えません。  静かに待ってみましたが、音がすることも部屋の明かりが点くこともありませんでした。扉は開けっぱなしになっていますが、ひと気は一切感じられません。少しだけ気味が悪いと感じました。しかし、男はそれ以上に好奇心をくすぐられました。  見間違いではないのなら、ここは確かに空き地だったはずです。しかし、雨が降ると忽然と見慣れない家が姿を現すのです。中を見てみたい。当然のように、男はそんな子供の悪戯心のような好奇心に駆られました。  誰か居ませんか。  訪問者を歓迎するように開け放たれた扉の前に立ち、静かにはっきりとした口調で問い掛けます。男の声はただただ暗闇に吸い込まれていくばかりで、それに対する返事はありませんでした。男はポケットから取り出したスマホのライトを点けて、中の様子を確かめてみます。  玄関や廊下、見える範囲の場所には何もありません。靴箱の上の花瓶や、玄関マット、靴など、誰かが住んでいるような気配が本当に何もないのです。まるで引っ越しのために大掃除をしたばかりのような、外観からは想像もつかないような綺麗な状態を保っていました。  少しくらいなら大丈夫。もし仮に持ち主に見つかったとしても、苦しそうな声がして呼び掛けたが返事がなく心配になったなどと言い訳をして、誠心誠意謝罪すれば大丈夫だろうと、男は軽く考えていました。  玄関に入り、傘を畳んで隅に立て掛けました。静かな室内をもう一度見回します。玄関を上がってすぐ左手に二階へ続く急勾配な階段。廊下は少しばかり奥に伸びて、右に曲がっています。左手の階段下のスペースには、小窓がついたお手洗いであろう扉、そして右手には磨りガラスの戸がありました。  まずは右手の部屋を見てみようと、男は早速靴を脱いで上がります。磨りガラスの向こうはぼんやりとしているうえに暗く、玄関の扉から差し込む光で畳が見えたことで、かろうじて和室だろうということが分かりました。  戸の窪みに指をかけ、ゆっくりと静かに開きました。その瞬間、ふわりとイグサの匂いが漂ってきます。男はスマホのライトを室内に向けました。そこは六畳程度の和室だったのですが、玄関と同様に家具や飾りなどは見当たりませんでした。  右手には掃き出し窓がありましたが、シャッターが下りているせいで光が届かないようでした。奥には押し入れがあり、開きっ放しになっています。押し入れの中には布団一枚ありません。天袋は閉まっていましたが、きっと押し入れと同じで何も入っていないだろうと、特に調べることはしませんでした。  がらんどうの和室は調べる場所などなく、ライトでひと通り照らすくらいで済みました。誰か居たら居たらで困りものですが、何もなさ過ぎるのも面白くありません。男は身に迫る危険はないけれど、この飢えた好奇心を満たしてくれるような都合のいい何かを求めました。  しかし、男の落胆は色を濃くしていきます。  階段下のスペースにあったお手洗い、そして廊下を右に曲がった先にあったリビングにも、男が求めているようなものは何もありませんでした。どこにも、何かしらの情報はおろか、それこそゴミのひとつすら落ちていないのです。雨の日にだけ現れる不思議な家を前にしているのに、それ以外は何の変哲もない家だなんて。  玄関に戻り、急勾配な階段を見上げます。転ばないように注意しつつ、ゆっくりと階段を上がりました。時折ぎいっと板が軋む音にびっくりしながら階段を上がりきると、すぐ目の前にあるのは一枚の扉だけでした。  男は残った最後のお菓子を口に運ぶかのような少しの躊躇いを見せたあと、祈るような気持ちで扉を開き中へと入りました。すると、男の目に光が届きます。部屋の窓にはカーテンがなく、外から曇天の合間を縫う薄っすらとした光が差し込んでいました。部屋はやはりがらんどうでしたが、男は孤独な夜から抜け出して待ちわびた朝を迎えられたような、清々しい気持ちになります。  部屋の右手は一面襖になっており、大きな部屋を二分する構造になっているのだと気がつきました。それならばこの襖の向こうが最後。これで何もなければもう帰ろうと、男は勢いよく襖を開け放ちます。瞬間、男はハッと息を呑みました。  部屋の中央に、人の骨があったんです。  骨は床に寝転がるように大の字になっていました。骨など葬式以外では見たこともなく、医学的な知識のない男にはそれが本物かどうかは分かりません。たとえそれが偽物だったとしても、男を戦慄させるには十分でした。  もしかしたら、この家には殺人犯が潜んでいるかもしれないということに恐怖した男の頭に浮かんだのは、逃げるという選択肢だけでした。ここで何があったのか、誰が殺されたのか、そんなことは男にはどうでもよかったんです。早くここから逃げなければ、今度は自分の身が危ないかもしれません。  男は部屋を飛び出して、転がり落ちるように階段を駆け下りました。その勢いのまま玄関の扉のノブを掴み、外に出ようとしたんです。しかし、何故か扉が開かなかったんです。誰かが鍵をかけたのかとも思いましたが、そもそも男がいるのは内側ですから、鍵をかけられたとしても簡単に開けられます。  混乱した頭で必死にドアノブの鍵を弄りますが、どう見ても鍵はかかっていなかったんです。普通の鍵とは逆なのかもしれないと思い、ツマミを横に捻ってみましたが、やはり扉は開きませんでした。早くしないと殺人犯に見つかってしまうかもしれないという恐怖が、男の不安と焦燥を駆り立てます。  そこで男はあることを閃きます。それは、窓から脱出するということでした。一階の窓はすべてシャッターが下りており、脱出は難しそうだと判断した男は、再び階段を駆け上がります。誰の物とも知れない不気味な骨に近づきたくはありませんでしたが、そんなことは言っていられません。  二階の部屋に飛び込んで、骨が目に入らないように襖を閉じます。そして、外の景色が見える窓に近づき、鍵を外して窓を開けようとしました。しかし、窓も開かなかったのです。どれだけ力を入れてもびくともしません。窓硝子を割ろうと手頃な物を探しましたが、家具も何もない部屋では見つかりませんでした。  男はスマホを取り出しました。誰かに連絡をして助けてもらおうと思いましたが、何故か圏外になっていたのです。こんな住宅街の真ん中で、電波が届かないなどということがあるでしょうか。男は歯痒さに舌打ちをして、スマホを握って振りかぶります。そして、スマホの角を窓硝子目がけて力強く振り下ろしました。  ガツン。スマホが窓硝子にぶつかった瞬間、鈍い音と共にスマホの角が少しひしゃげました。しかし、どうしたことでしょう。窓硝子には傷ひとつついていません。硬いスマホを思い切りぶつけても薄い窓硝子が割れなかったことに、男は絶望しました。  他に脱出できるような場所がないか、男は必至で思考を巡らせます。と、その時でした。真下を通る道路にスーツを着たサラリーマンの姿を捉えます。男は考えるのを止めて咄嗟に窓硝子をバンバンと叩き、大声で助けを求めました。何度も何度も。しかし、サラリーマンは男の声などまるで聞こえていないように、通り過ぎて見えなくなります。  男はがくりと膝から崩れ落ちました。そして、窓から見える空を仰ぎます。白い雲と青い空。差し込む眩い太陽の光は、男の心模様とは正反対に煌々としていました。さきほどまでは光に安堵していたのに、今は恨めしいとさえ思えます。  雨が降ると忽然と現れる不思議な家。そんな得体の知れない場所に踏み込んでしまった己の軽率な行動を嘆きました。何故、こんなことになったのでしょう。男の頭の中はそれでいっぱいになりました。ぐるぐるとひたすら同じことが頭の中を巡ります。そして、ぼうっと窓から外を眺めていた男はようやく気がついたのです。  いつの間にか、雨がやんでいたことに。
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