祟られの話

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祟られの話

 あるひとりの男、仮にAとしましょう。Aはいわゆるブラック企業に勤めていました。休みは月に3日、1日最低14時間の労働。お昼休憩だってまともに取ることもできず、さらには8時間以降はタイムカードを切るように言いつけられていたのです。Aはそんな過酷な労働環境に、いつしか身も心もボロボロになっていきました。  そんなある日。日々の重労働で疲弊したAはうっかりミスをしてしまいました。すると、上司はAを激しく叱責します。能力や人格の否定など、思いつく限りの罵詈雑言を浴びせられたのです。しかし、それだけでは満足しなかった上司は、ついには殴る蹴るなどの暴行にも及びました。  身体中を激しい痛みに襲われるなか、Aはふと上司を殺してしまおうと思い立ったのです。逃げればいいのに。そう思われるかもしれませんが、洗脳されたり思考回路が麻痺してしまった人間には、不思議なことに逃げるという選択肢はありません。Aは考えます。どうすれば罪に問われないように上司の息の根を止められるかを。  呪い。  頭のなかにそんな言葉が浮かびました。もし、上司を呪い殺すことができたなら、誰もAを罪に問うことはできません。呪殺では殺人を立証することはできないのですから。仮に呪いが存在していたとしても、国がそれを認めるわけにはいきません。だからこそ、それを利用できればと。  Aは日々の僅かな自由時間や睡眠時間を削って、必死で相手を呪い殺す方法を探しました。藁にも縋る思いで、見つけた方法を実際に試します。しかし、翌日には上司は何事もなかったかのように出勤してきました。そのたび、Aは歯痒さに下唇を噛みしめます。  深夜。いつも通り寝る間も惜しんで呪う方法を探していると、ふと気になる書き込みを見つけました。それは、とある会員専用サイトへの導線でした。中を閲覧するには会員登録が必要でしたが、どうやら呪い殺したい相手がいる人が集まるサイトのようです。  登録費用は30万円。悪質な詐欺サイトを疑うのが普通ですが、男は迷わず会員登録を進めました。ブラック企業で安月給なAでしたが、拘束時間が長いせいでお金を稼いでも使う時間がなかったのです。それが幸か不幸か、高額な登録費用を躊躇わずに出せるだけの蓄えがありました。  サイト内は黒を基調にしたおどろおどろしい雰囲気です。呪法販売と書かれたボタンをクリックすると、強さが段階分けされた呪法がずらりと並んでいました。風邪を引かせるなどの体調不良を起こすものから、骨折や麻痺など部位損傷、果ては焼死轢死溺死など命を奪うものまで。  販売価格は数千円から数百万円。結果として命を奪うものだったとしても、過程で大きな苦しみを長く伴うものはそれだけ高額のようです。Aは考えました。上司がいなくなればいいだけなのか、それとも長く苦しんで欲しいのか。答えは簡単でした。一刻も早く消えて欲しい。ただそれだけだったのです。  すぐに命を奪い、且つ、中でも安価な事故死を購入することにしました。購入後は登録したメールアドレスに、事故死をさせるための呪法が届いたんです。ここでは無駄な被害を増やさないために手順の一部を省きますが、ある方法で紙に呪いの力を込め、そこにいつ、誰が、どこで事故死するのかを記載し、自らの血で相手の名前を塗り潰すだけでした。ただし、相手を呪っていることを誰かに知られてしまうと、効果が消えてしまうそうです。  Aはすぐさまその方法を実行に移しました。手順が間違っていないかを何度も何度も確かめながら、慎重に慎重を重ねて。上司の名前を自分の血で塗り潰し、満足気にそれを眺めます。これで。これであの地獄の日々から救われると。Aは本気でそう思っていたのです。  誰にも知られてはいけないため、メールで届いた呪法は写真に撮って、メールは削除しました。そして、写真と紙を一緒に鍵付きの引き出しに厳重に仕舞いました。引き出しの鍵はあまり開ける必要はないだろうと、押し入れの中板の裏にセロテープで貼りつける徹底ぶり。  部屋の真ん中で大の字に寝転んだAは、まだ成就を確認できていないにもかかわらず、大きなひと仕事を終えたような達成感で気分が高揚していました。今すぐにでも祝杯をあげたい気持ちでしたが、さすがにそれは明日の楽しみとしてとっておこうと控えます。そしていつになくいい気分のまま、Aは深い眠りへと落ちていきました。  そして翌日。Aは意気揚々と出社し、始業時間まで準備を進めていました。いつもならもうとっくに出社しているはずの上司の姿はありません。同僚たちが上司遅いな、などと話しているのが聞こえると、嬉しくなって笑みが零れます。きっと今頃病院にでも搬送されている、そう思っていました。  しかし、そうは問屋が卸しませんでした。  始業三分前。大きなあくびをしながら、上司が顔をだしたのです。Aはまるで幽霊でも見るかのように大層驚きました。そして、深く絶望しました。せっかく大枚をはたいたというのに、何の効果もなかったのですから。呆けていたところを上司に蹴飛ばされ、我に返ったAは慌てて持ち場に向かいました。  その日、Aはギャンブルで大負けしたという不機嫌な上司から、いつも以上に理不尽なことばかりを言われて疲労困憊。変なサイトに騙されてしまったという苛立ちも相まって、朝から晩まで気分は最悪でした。そんなこんなで、気がつけば夜の11時を過ぎていました。  帰り道。疲労でふらふらのままタクシーに乗り込みます。心に溜まった泥を吐き出すように、大きく大きく溜め息を吐きました。ふと携帯電話を見ると、着信履歴が7件あったのです。どうしたのだろうと履歴を確かめると、電話をかけてきていたのは大学時代の友人であるBでした。  Bとはたまに遊ぶ仲ではあったものの、そこまで深い関わりはありませんでした。悪い奴ではないのですが、よく一週間程度の音信不通になったり、予定を急にキャンセルしてきたりで都合の合わないことが多かったのです。それでも気が合ったので大学時代は遊べる時には遊んでいましたが、卒業と同時に連絡を取り合うことすらなくなってしまいました。  それなのに、突然どうしたのでしょうか。同窓会の幹事でも任されて、参加者を集めているのかもしれません。くたびれた心に楽しかった大学時代の思い出が鮮やかに蘇ります。あの頃はまさか自分がこんな奴隷のように地べたを這いずる馬車馬人生を送るなんて考えてもいませんでした。一体どこで間違ってしまったのでしょうか。そんな今更な後悔がAを苛みます。  Bが最後に電話をかけてきていたのは二時間前。こんな時間に折り返すのは非常識ですが、どうせ自由に動けるのは早朝か夜遅くしかないのです。どちらにせよ非常識な時間帯なのですから、早い方がいいでしょう。そう思いBに電話をかけます。  電話はすぐに繋がりました。久し振りに聞いたBの声が酷く懐かしく感じます。昔話に花を咲かせるのもまた一興。そう思ったのですが、Bの声色は神妙なものでした。明らかに同窓会の誘いや雑談という雰囲気ではありません。まさか金を貸してくれとでも言うつもりなのでしょうか。急にどうしたんだ、と口にしようとしたその時でした。  お前、誰かを呪ってるだろ?  Bの言葉に、Aは心臓が口から飛び出そうになりました。どうしてBがそれを知っているのでしょうか。もちろんAは誰にも呪法のことは話してはいません。誰かに知られてはいけないものですし、何より自分が誰かを呪っているなど嬉々として話す人などいないでしょう。  慌てて誤魔化しますが、Bは静かに溜め息を吐きながらAの言葉を遮ります。Bは言いました。自分は「祟られ」なのだと。Aが祟られとは何かと問うと、Bは言葉を選びながら理解しやすいように話してくれました。  祟られとは、祟りや呪いを引き寄せてしまう体質なのだそうです。本来、祟りや呪いは触れてはいけないモノに触れたり、自分に向けられたモノでなければ影響はありません。しかし、祟られは様々な条件のもと自分には関係ないはずの祟りや呪いを引き寄せてしまうのです。  引き寄せる条件は人によって異なり、Bは自分を知っている人間が祟られたり誰かを呪うと、それを引き寄せてしまうと言います。その際、誰が祟られているのか、誰が呪っているのかを知ることができるのです。大学時代、たびたび音信不通になっていたのは、引き寄せてしまった悪いモノをお祓いするためだったそうです。  大丈夫なのかと心配するAに、Bは笑って答えます。祟られは悪いモノに取り憑かれて悪さをされる訳ではなく、好かれやすく単に付きまとわれるだけなのだと。だから実害があることは殆どないのだそう。にわかには信じられませんでしたが、そういうことなら大学時代のBの行動も腑に落ちました。  そんなことより悩んでいるなら力になるぞ、そうBは優しい口調でAに言います。人を呪わば穴二つ。誰かを呪う人間は、それだけ追い詰められているということです。それが旧友ならば助けたいと思うのは、友人ならば当たり前のことかもしれません。  次の休み、AはBと会う約束をしました。Bに会えば、少しは心に溜まったどす黒いモノが薄れるかもしれません。そう考えたからです。AはBに深く感謝しました。心配かけてすまなかった。そして、教えてくれてありがとう。そう言って電話を切りました。  Aの心は晴れやかでした。半日以上の重労働や理不尽な要求で疲弊していたはずの身体が、ふわふわと羽のように軽くなっていくのを感じます。不確定、いや、絶望に染まっていた未来が再び明るくなったのです。Bがわざわざ電話をかけてきてくれたことを、神様に何度も何度も感謝しました。これでもう、何も怖いものはありません。  約束の日までの一週間、Aはがむしゃらに働きました。上司からは相変わらず理不尽な要求ばかりでしたが、もうすぐそれも終わることを思えば、あまり苦にはなりませんでした。同僚から最近機嫌がいいがどうしたのかと聞かれましたが、懐かしい友人と会えることになったんだと適当に誤魔化していました。  そして、待ちに待った約束の日が訪れました。大学時代によく通っていたファミレスで待ち合わせ。久し振りに会ったBは学生時代よりも痩せていました。頼りないひょろひょろの体躯。きっと祟られという難儀な体質のせいだろうと、がっつりとしたステーキを食べさせることにしました。  それから2時間。Bに苦労話を聞いてもらいました。誰かに聞いてもらえるだけでこんなにも心が軽くなることに驚きます。そして、その後はストレス発散にカラオケやバッティングセンターなど、学生時代の思い出をなぞりました。過去に戻れたような。苦しみから解放されたような。そんな解放感に包まれました。  しかし、楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまいます。いつの間にかすっかり日も落ち、もうすぐ別れの時間が訪れます。Aは最後に高台にある展望台へ行こうと提案しました。Bは快く頷いてくれ、15分ほどかけて展望台へ。  虫の多い時期のせいか、ひと気はありません。美しい夜景を、ただ静かに眺めます。ごめんな。Aがぽつりと零しました。気にするな。Bが笑います。ありがとう。Aがまたぽつりと零しました。そして、Aは惜しみながらもBに別れを告げて、ゆっくりと家路につきました。  翌日、朝礼で上司の訃報が届きました。死因は車での事故だったそうです。
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