第十四章

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「夏ももうおしまいね」  菜穂美は哀愁を帯びた声でそう言った。 「ええ」 「ねえ佐藤君」 「はい、なんですか」 「これで私たちも、おしまいにしましょう」  碧は愕然とした。確かに碧は、愕然としたのである。  碧は突然自分の声を失った気がして、ただ菜穂美の目に、無言で訴えかけるような明らかに悲しい顔をした。菜穂美の横顔は、その彼の顔を見ようとしなかった。その鼻梁の確然と美しい横顔は、まるで獅子のように揺るぎない拒絶の力で(みなぎ)っていた。 「佐藤君、あなたは今まで私と同じように夢を見ていたのよ。殆ど現実のような夢を。あなたは夢の中で自分を売り、そして私を買って、自分自身を買い戻すようになった。それで夢の物語は一周して、終わりを迎えるの」  菜穂美の歓迎は、はなから別れを切り出す口実である。それにしても菜穂美は、こうして自分から碧に別れを切り出しておいて、それと一緒に碧との思い出を全て断ち切れるほどの気持ちにはなれない。なんでもかんでも全て一からやり直せるほど、菜穂美の人生はもう若くない。だから菜穂美は碧を忘れる必要もないし、寧ろ記憶しておく方が重要な気がする。菜穂美はこれから碧を知らない自分に戻るのではなく、碧を知っているただの隣人になるつもりだ。  そういう菜穂美の揺るぎない思惑が、彼女の満足げな顔つきからなんとなく伝わると、碧は初めて自分の目に涙を感じた。それは温かくもなく、冷たくもない、殆ど無温な、これまでの感情の怠惰、それはきっと日葵のあの鈍感さとはまた違う怠惰が流させる、心に溜まった濁りのようなものだった。これは単なる失望の(もたら)す悲しみというよりはむしろ、都会で働く息子が、田舎の母親が亡くなったと連絡されたときに感じる過去の記憶の風化と再生のような悲しみだ。  涙を感じたと同時に、碧はやっとその声を取り戻したが、その取り戻したばかりの声は確実に意志の力を喪っていて、その無気力や無感情では、目前のもはや凛々しい菜穂美の心底に、どれほど訴えかけることが出来ようか分からない。きっとその哀訴は彼女の心どころか、もう彼女の耳にすら届かないかもしれない。  菜穂美の裸の唇は、もう碧はおろか、遥か彼方の海など見てはいなかった。彼女のその遠い微笑みは、彼女には不可能なはずの、あの母親の責任の力を手に入れ、母親がこれから遠くへ旅立つ息子らを見送るような、どこも見てもいないし、また全てを見ている瞳をしていたのである。 「さあ私も夢から覚めて、陸に帰らなきゃならないわ。佐藤君。あなた、もうこれっきり自分を安売りしないことよ。最後に私と約束して頂戴」 「僕に約束なんてできるでしょうか。僕は最初から最後まで、自分勝手でした」 「そうかもね。けれどあなたにはまだ、守るものがあるわ」  菜穂美は腰や臀部や太腿に付いた砂粒を払いながら立ち上がった。そして清々しい顔で碧にこう言った。 「これからは日葵ちゃんのことを本当に大事にしてあげなさい。今のあなたになら、その意味くらいわかるでしょ?」  菜穂美はつい先週あの病院で、『軽い貧血症』の通院帰りの日葵を迎えに来た碧を目撃していたのである。  そのとき菜穂美は碧との別離を決めた。菜穂美は忘れていた何かの片鱗ばかりを思い出すときのように、あの赤い苦しみから覚悟と責務だけが抽出され、彼女の心の裡に取り戻された。鼻孔に突然、あの生理のような重い潮の香りが呼び起こされてくる。  彼女は多分自分がこう感じるからには、自分は遊び疲れたのだと思った。すると途端に菜穂美の目には、歳の二回りも若い二人が、本当の息子と娘のように思えてきたのである。
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