第四章

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 夕も更けたころ、碧の六年落ちのスマフォに通知がある。日葵からの呼び出しである。そういえば今日は金曜日だった。碧は椅子から立ち上がって、コートハンガーにかけたベージュのロングコートを着込み、鼻から口までマスクをかけ、スマフォで電車の時間を調べた。   *  就職を機に昨年の春引っ越した日葵は、今は碧の自宅から2キロくらい離れた、月家賃六万二千円、1LDKのアパートの三階に住んでいる。日葵の部屋は、家具業界の宣材写真のように整然としている以外に特徴がないのが特徴であるが、季節ごとに気付かないくらい少しずつ模様替えされ、例えば夏には薄いラグが、冬にはウールのふんわりしたカーペットが床に敷かれる。  今はもうリビングの二人用のダイニングテーブルは既に片付けられて、食事などの跡形もない。二人掛けソファーのクッションがカーペットに音もなく転がっていて、転がった先のテレビはつい先ほどまで日葵の好きなテレビドラマを流していたが、その薄型の筐体のてっぺんに、乱雑に日葵の水色のセーターが投げかけられてしな垂れている。  それは脱がされたばかりでまだほのかに日葵の体温を残している。この温もりは背後の、日葵の寝室の扉の隙間の方へ、ほのかなオーデコロンの香りをたなびかせている……。  日葵の長い太腿は、それを感じるたびにかわるがわるねじれて、夜気を孕んだ甘い微熱を放ちながら唸った。白い肌の強張った紅潮が、日葵の慎ましやかに顔を背け合った二つの乳房に映えている。二粒の野苺はまことに宝石のように紅く熟れていて、少し触れただけで感じやすく、膨らんだ房先からこぼれ落ちそうになる。  碧は幼い子供が涙ながらに母親に駄菓子をねだるように、柔軟なその感動の隅々に何度も接吻した。日葵の柘榴(ざくろ)の果皮のような縦裂は、割かれるたびに異なる甘美な喘ぎを伴いながら潤った。  四年に及んでもまだ幼稚で拙い碧の愛撫は、どれだけ回数を重ねて上達の兆しを見せなくとも、日葵の意に適った。その生真面目な性格からか、日葵は世間の女が覚える一連の愛撫に十分以上に長けていたが、正反対に碧のこの床下手にも関わらず幸福だったのは、碧の肉体の衝動と齟齬(そご〉する精神の|呵責《かしゃく)ゆえの粗末さを、やはり彼女の鈍感さが、純真な情愛と勘違いしていたためである。  日葵は碧のこんな不手際によって、あの女の醜い疑惑、男の背後に隠れた女物の香水を嗅ぎ取る本能から隔たれていたので、日葵の快楽は、あらゆる女の快楽の持すべき精神的苦痛を知らずにいることが出来たのだ。と言っても、怠慢の苦痛、疑惑の苦痛、倦怠の苦痛……とにかく悩ましい苦痛に縁が無いためにかえって、そういった苦痛に比べれば遥かにどうでも良いような些細な出来事が、時々日葵を苦しめはした。  たとえば、もう四年前、瑞々しい初夜のしとねに、日葵は近く迫った碧の誕生日を高級フレンチ・レストランで祝いたいと懇願したものの、頑なに聞き入れられずに泣き寝入りしたことがある。  日葵はそれ以来、碧の欠点については忘却したように心を閉ざし、考えることも辞めてしまった。幸運なことに、彼女のような賢い人間には、いつも危うい選択を拒絶する選択肢も与えられている。  日葵はこうして「自分のために彼を責める」という危険な考えを止めるのと同時に、およそ常人には計り知れない天啓を得たのである。天の啓示はすみやかに日葵に両眼を潰させた。何故なら日葵は既に後戻りできないくらい碧のことをただひたすら愛していたからである。潰れた優しい両眼からは、たまに透明で冷たい血のような涙が流れた。
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