第四章

3/3
前へ
/79ページ
次へ
 事が終わって、枕元に寝返って初めて目が合ったとき、日葵は碧の耳元に口づけするかのように呟いた。このめざましい、汗ばんだ媚態(びたい)は、さきほどまでの快い疲労をすっかり忘れさせるほどである。 「今日の夜、美味しかった? 腕によりをかけたつもりだったんだけど」  碧は少し間を置いてから答えた。 「うん。美味しかったよ。また作ってほしい」 「ありがとう。でもちゃんと自分でも食べてよ。私心配なんだから」  日葵は碧の顔を見て幸せそうに微笑した。  碧は絶望した。男は生きる以上それに意味や意義を見出さねば済まされない生き物である。だから碧は日葵の、特に意味のない幸せそうな笑顔を見ると、それが意味を持たない理由を探さねばならない気がする。 『少なくとも、少なくとも僕のような人間は、世界の表側から人を愛することはできない。僕は世界の裏側から人を愛するしかないのに、僕はその勇気が無いから、女の裏切り方を知らない。本来僕のような男が女に関して優先して履修すべき科目は、愛情という科目でなくて、寧ろ不倫だとか裏切りだとかいう、もっと不道徳な科目の方じゃないだろうか。女は大抵愛情の単位から疑惑や不倫の単位を導き出すが、男は疑惑や不倫の単位から愛情という単位を導き出すものだ。……僕は本当に日葵を愛しているのだろうか?』  こうして寧ろ理由によって後付けされて現れる碧の感情、おそらくそれを愛情というべき感情は、考え過ぎれば考え過ぎるほど文字通りの愛情らしくなく、無理に愛情だと思い込むなら、もはや劣情とでもいうべきものかもしれない。  碧はその理不尽な感情の迷宮の中で、無為な苦しみから逃れられない。愛とは自然な本能に由来するものではなく、寧ろ人工的な理性の妥協や挫折のようなものなのかもしれない……。 「私、最近よく思うの。自分が碧のことが好きでよかったって。碧が大変なのは分かってるつもりなのに。……いいのかな」  珍しく日葵が後ろ向きなことを言うので、碧は少し驚いた。 「良いも悪いもないよ。僕も日葵のことが好きだよ」  日葵はこういうときの喜び方を未だによく知らなかったので、碧の胸に半ばがむしゃらに抱きついた。碧は、今自分が本当に最低な嘘をついている気がする。まるで恋愛という、あの幼稚な駆け引きのような。  自分はどこでこんな幼稚な駆け引きを学んだのだろう。思い出してみれば、碧は今夜も日葵の家に来る電車の中で、また買ったばかりの恋愛小説を読んでいた。この劣情はそのリフレインのせいだろうか? だがまさか自分が、日葵を愛の実験台にするような真似をしているなどと認めるような真似はしたくない。  暖房の効いたベッド脇のナイトテーブルに置かれたアロマオイルが、足元に散らかった二人の下着を踏みにじりながら、蒸れた香りを枕元に漂わせている。  既に日付を跨いだ夜中の一時頃である。  橙色のナイトランプが日葵を安眠から遠ざけている。未だ治まらない胸の高鳴りを感じつつ、日葵はじっと碧の塑像のような灰橙色の寝顔を見つめていた。  鼻息が嬰児(えいじ)のように穏やかである。行為のあと碧はいつもよく眠ってくれるので、日葵はそれを幸せに感じた。碧は放っておけば、食べることも眠ることも忘れてしまうから、日葵は気が気でいられない。  だが二人が過去に乗り越えてきた小さな事件の数々が、今では日葵の確固たる自信に成り代わり、それはまた彼女の愛でもあり、日葵の真心に不断の決意として硬い根を張っているようにも思われた。自分はこの人と、離れることが出来ない気がする。  碧の誕生日を華やかに祝う計画の失敗、碧に迫った突然の死、美しいイルミネーションに彩られたクリスマスの大通りを歩く予定の破綻、大学卒業前に三度話し合って結局御破談になった、碧との同棲――日葵は安らかな寝息を立てる碧の頭を、自分の胸に抱き寄せ、目を閉じて微笑んだ。  日葵は碧という聖典を信仰していたから、碧の病を知って彼女が就いたのも、大手の障害者就労支援施設の支援員という滅私的な職である。新卒入社してはや八か月になるが、これは他でもない彼女の天職だった。
/79ページ

最初のコメントを投稿しよう!

19人が本棚に入れています
本棚に追加