第一章

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 碧は天鵞絨(びろうど)色の手帳を握り、精緻な鼻筋の根元に乾いた唇をきつく(かたく)なに結んだ。これで用事は終わった。後はもう帰るだけである。外の世界は懲り懲りである。  碧は、今彼がいる待合席の、保健福祉センターの一階全体の、無色透明な空気が好きになれない。碧の前を通り過ぎてゆく人々の背中は、いつもすすけているかもしくは気がたっていて、見ている側も安らがない感じがする。そう感じると自分は神経質すぎる気がして、碧は余計気が悪い。  ここは社会的弱者の集会所である。またの名を健康福祉課という。ここに集う人間は、好き好んで集ったわけではなく、みな何かしらの問題を抱えて、救いを求めて駆け込んだに過ぎない。  碧が障害者手帳を受け取ったのもここである。部署を隔ててその隣には高齢福祉課がある。そこには老人のほかに、就労移行中の若者がいたりする。老人ほど高慢で、若者ほど臆病である。若者はみな何かに怯えていて、恫喝的な口調の老人と対比すると余計惨たらしい。  それなのに窓口を隔てた向こう側は、全く別の世界が広がっているように碧には感じられる。利用者の居るスペースより遥かに広い公務員の仕事場、並び過ぎたデスクの白電話の鳴りやまぬ(とよ)めき、窓口公務員たちの無表情なあの激励、利用者たちを同じ人間と思っていない、言葉の通じない硝子の玩具を優しく扱うような態度……。  こちらと彼らを隔てている一列の長机と窓口のプラスチックの透明な仕切りが、刑務所の面会室の透明な壁のように感じられると、碧は打ちのめされた。自分はどうして無罪なのに、こんな机や仕切りの一つや二つで区別されて、『こちら側』にいなければならないのだろう?  信じたくなくても碧の手に握られているものには確かに、しっかり『障害者手帳』と、安物の金字が刻まれているのである。  碧は手帳を開いた。でかでかと大袈裟に()された、赤い四角の市印の下に記された手帳の正式名称は、『精神保健及び精神障害者福祉に関する法律第45条の保健福祉手帳』とある。  これを現代の印籠などと揶揄する人間もよくいる。が、印籠というのは全く正しい表現ではない。これは手帳の形をした無実の罪人用の(かせ)である。  これを持っているか否かで、我々は特権的か非特権的かというのではなくて、寧ろ罪人的か非罪人的かに類別されるのである。我々は少なくとも、この枷をいざという時ほど他人に見せつけることができない。しかも老公がこれを持っている確率はかなり低い。何故なら枷を受けた不自由な罪人は、多くの場合老いる前に自発的にこれを外すことができるが、そうでなければ自発的に死を選んでしまうからである。自分がそのどちらになるだろうか考えただけで、碧は恐ろしい。  この行政の枷には碧の顔写真、氏名、住所、生年月日、等級、手帳番号が前科のように刻印されている。碧は眉をひきしめて苦い顔をした。状況もまだいまいちにそこに投げ込まれた人間は多くの場合、こういう何とも言えないむつかしい顔をする以外に術がない。  ついさっきだって、福祉健康課の待合席で、膝の上に読みかけの小説を閉ざして、どこか遠い眼差しで手帳を眺めていたのを、通りすがりの生活保護受給者らしきシングルマザーの幼い金髪の連れ子に笑われて、「死ね、障害者」と慎みない大声で罵られても、碧はもう気にも留めなかったが、そっと手帳を閉じて保健福祉センターの玄関を出て、まだ昨夜の雨で濡れている薄灰色のコンクリートの歩道を踏みしめると、碧はさてこれから僕はどうしようかと考えた。
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