第二章

2/2

22人が本棚に入れています
本棚に追加
/79ページ
 令和四年の、碧が大学四年生のとき、過酷な実験研究を課す研究室との因縁を金輪際断ちたくて、研究室縁故企業から届いた就職求人を全て蹴った。  学内でも碧の研究室は、毎年優秀な研究者が出る一方、一定数廃人を出すことで有名で、碧の同僚でドイツ人留学生のカールは、ある夏の日のむせかえる研究室に冒されて、マックス・プランクの熱力学第二法則に関する論文のドイツ語が読めなくなって入院した。  そして碧も、そんな強迫的な環境で奴隷のように卒業研究に血を流しながら、かたや大中小二十社ほどから不採用通知を貰ったあたりで、遂に異常をきたしたのである。  碧は徹夜で泊りがけの缶詰だった研究室から、二週間ぶりに自宅のアパートに帰った。  (あたか)も灼熱の真夏のことである。あの蝉の頭痛のような騒がしさが陽炎の向こうで反響しているのが、このときほど恋しいと思えたことはない。碧は心地よい熱にうなされながら四日ぶりに死んだように眠りについた。 二日後に碧が再び意識を取り戻したのは、救急車に緊急搬送されている最中のことである。碧は大学病院の診断を仰いだ。すぐに碧の入院が決まった。  碧の入院生活は二週間に及んだ。この久闊(きゅうかつ)の平穏な生活のあいだ、客足が足繁しいでもなく、無論見舞の品が病床に並ぶことなどもない。入院二日目にして研究室の教授から、退院後すぐセミナーの発表があるから、三日前にはプレゼンの中身を寄越せと連絡が来たくらいである。地元の両親には、碧から連絡しなかったので、当然なんの音沙汰もない。  アルコール消毒液の死の匂いのする病室で過ごす一昼一夜は、真夏にも関わらず、ベッドに縛りつけられた碧の亜麻色(あまいろ)の病院着に、水揚げされた魚のようにべったり冷や汗をにじませた。  退院後、改めて大学病院の専門医が、碧に大学保健棟のメンタルケア医を紹介し、定期面談が始まったのが、同年九月の頭である。碧は正式に精神障害を診断された。
/79ページ

最初のコメントを投稿しよう!

22人が本棚に入れています
本棚に追加