第十三章

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第十三章

 行く途中で知り合いに呼び止められないとも限らないので、菜穂美は普段着ないような目立たない地味な服を着て、入念にサングラスをかけ、夏なのに顔の下半分をマスクで隠して、紀子と駅で落ち合った。  時間的に丁度帰宅のラッシュに重なり、東京から帰る人の数より東京へ帰る人の数の方が少ないのは言うまでもなかったが、それでも人が多くて胸が苦しいなどと弱音を吐く紀子を(なだ)めて数少ない空席に座らせて、自分は彼女の目の前の吊革に掴まったまま、整然を保った。  既に三十分弱も、満員近い電車に揺られながら、銀座駅へ向かっている最中である。紫に染まった夕空の下を次々すれ違う満員電車を見ると、菜穂美はその中にまた別の自分が乗っていて、自分がこれから冒そうとしている体たらくな危険をじっと責めるような目で眺められているような気がする。彼女は時間を遡り、自分は時間を進んでゆくという、不可能な隔絶がすれ違っているかのように感じる。  人間がこう感じるためには、単に錯覚か、もしくはなにかしら判然としない期待か資格が要る。少なくとも菜穂美には、限りなく錯覚ではなくそう感じる資格があった。菜穂美は閉経したのである。  予定日を一日過ぎて、二日過ぎて、三日過ぎても、菜穂美の赤い喪はもう訪れなかった。それは菜穂美にとって自分ではない何かの途切れ途切れな死の連続のような、尽くしがたい服従から解放されたように感じた。瞭然とした苦しみの終わり、そして判然としない歓びの始まりのように感じたのである。  ここから暮れなずむ赤い有明(ありあけ)の海はまだ見えない。そして重い潮の香りもしない。これから菜穂美は、周期的な船出生活からようやく退役し、人で溢れかえった陸の生活を、これまでよりずっと身近に感じ続けることになるであろう。
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