第十三章

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 二人は銀座駅に着くとすぐ、駅から徒歩五分の、コリドー街沿いのナイトクラブに待ち合わせの時刻が迫っていた。ナイトクラブは二階建ての、一階がバーフロア、二階がレストランフロアになっている複合的な構成で、立席着席合わせて三百名、一階二階合わせて約三百平米にもなる大掛かりなものである。  一階の青や紫のネオンは、天上のシャンデリアを、水族館の深海エリアに展示されている不思議な海月(くらげ)のように見せていたり、酒樽を逆さにして底に丸いテーブルを取り付けた立ち飲み席を、黒縞模様の茄子のように見せていたりする。  いかにも(はす)に構えた若者が好みがちな、奇の(てら)い方を勘違いした珍奇な光景だと菜穂美は思ったが、彼女の高潔な貴族意識はこういう民衆的な流行をさも嫌わず、寧ろ知り合いが一人も居なさそうな世俗的な印象をよく気に入った。  にも関わらず、やっぱり紀子は激しいネオンにすぐ目と胸を悪くして、入店したそばからもう帰りたいなどと駄々をこねて、面倒見の良い姉は、硝子(がらす)細工のような血の繋がらない妹の扱い方に困った。  紀子を支えながら、菜穂美は店の中央の幅の狭い鉄階段を上った。菜穂美はヒールの付いた靴を履いてこなくて良かったと思った。少し気を抜いたら隙間の空いた格子を踏み外しそうだと思ったからである。  二階の階段を上り切った頭上には銀色のミラーボールがぶら下がっている。その北半球を、二階の真赤なネオンが照らしている。天井にはミラーボール以外にも、チベット高原の煌びやかなペンダントやマニ車のような一風変わった天井飾りが、幾つもぶら下がってそれとない雰囲気を醸しているが、四角い業務用エアコンが丸見えで台無しである。  菜穂美は二階のレストランの客席を見渡して、どれが待ち合わせの相手か紀子に尋ねた。弱々しい紀子は店内をまともに見ようともせず、二人組の若い男たちだと曖昧に答えた。  客席には二人組の金髪の青い目をした若い外人の男たちがいる。二人組の会社帰りらしい若いサラリーマンの男たちがいる。テーブルについている二人組の若い男たちなどいくらでもいる。 「紀子ちゃん、相手がどんな格好だとかも分からないの?」 「えっと、えっと、一人は私服で、一人はスーツで来るって連絡を貰ったの」 「そんなのじゃ分からないでしょう。電話番号とか何か連絡先は?」 「ちょっと、ちょっと待って。ああ、もう帰りたい」  菜穂美は言ってどうにもならないなら、仕方なく紀子の不甲斐ない頬を平手で()たねばならないかもしれなかった。  もしくは、このまま何もせず帰っても良い。また日を改めて二人で反省会でも開いて、自分たちはこんなちんけな危険を犯す勇気も無かったけど、最初にしてはよくやった方だと笑って済ませば良い。だがそれすらできそうにないから、まるで紀子が理性のない動物のように思えてきてしまう。  二人が二階に上がって、擦った揉んだ立ち往生していたそんなときである。 「どうかなさいましたか」  菜穂美と紀子は、丁度背後から、鉄階段を上がってきた青年の澄んだ低い声を耳にした。 「ああ、すみません。大丈夫ですわ。お邪魔でしたら、今どきますから」  早口で答えながら菜穂美は振り返った。  そして彼女が背後の夏スーツ姿の彼を見たとき、菜穂美は自分が本当はまださっきの階段を踏み外して落下している最中で、あの殆ど無にも近い、呼吸のできない、青春のような衝撃に身を委ねているような気がした。  そしてそのまま、気を失いそうなくらい動顛(どうてん)している紀子のことなど忘れて、寧ろ自分の方こそ気を失うべきなのに、何故そうならないのかと真剣に考えた。
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