第十三章

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 だが菜穂美は今夜、危険を冒しに来たのではなかったか。しかし今その危険は、冒す前に過ぎ去りそうである。こういうとき感じるのは本来安心ではなく、目的を果たせなかった無念さではないだろうか? それなら何故菜穂美は、無念さを感じないのであろう。  こんな不明な逆転的な感覚を彼女は知らなかったが、同時に彼女にこういう感覚を与えるほどの美青年に対するときめきを、菜穂美は何と表現すればよいかも分からないのである。 「伊藤君は無口だね。別れる前に何か無い?」  だから高橋がそう彼に話を振ってくれると、菜穂美はほかならず喜んだ。 「そうだな、とても楽しかったな。普段こういうみんなで集まって何かするなんて、そうないから。でも折角だけど、次回は遠慮しないといけない。今日でこういう付き合いは、最後にしようと思って来たんだ」 「駄目よ」  菜穂美は焦って口にした。考え無しに行動に移すような真似はしない自負があった菜穂美は、自分を衝動的にした、この降って湧いた感情を飲み込んで傷付いた。遅れてやってきた無念さは丸のみにするにはかなり大きかった。 「残念だな。でもそれなら、次に会うとき、僕はお二人とお会いすればいいんですか?」と高橋が聞いた。  菜穂美はそんな高橋を責めたくなった。自分でそれが出来ないくせに、会話の主導者である高橋が美青年のつれなさを咎めて、もう一度くらい会うべきだと提案すべきだと思ったのである。  だがここから菜穂美の立ち回りは巧みだった。 「でも元々高橋君と会いに来たのは、きぃちゃんでしょ。私はもう要らないんじゃないかしら」と菜穂美が言った。 「お二人がそれでいいなら、そうしますよ。中村さんはそれでいいですか」と高橋が聞くと、 「ええ、そうしましょうか。高橋さんの話、もっと聞きたいわ」  と紀子は実に乗り気である。こうして菜穂美は最後のチャンスを作ることに成功した。退店間際、菜穂美は自分の連絡先を走り書きしたメモ用紙をこっそり手渡して、美青年にこう耳打ちした。 「また会ってくれないかしら。あなたほど美しい人、私見たことがないわ」  碧はそれを聞いて、この女はまるで松風のようなことを言うなと思った。  碧は今までいろんな痴女に会ってきたが、彼の美貌を褒めた女は菜穂美が初めてである。男を買うような痴女は、何かしらのきっかけで男に媚びるようになっても、自分から男を褒めるようなことをしない。痴女は男に媚びている自分に興奮するくせに、男を褒める自分には打ちひしがれたように幻滅するものだ。  だから碧は、余計にとでもいうべきか、こんな菜穂美に純粋な興味を惹かれたのかもしれない。
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