第十三章

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 菜穂美と碧は、日を改めてC市内の盛大な海浜公園を望むリゾートホテルで再会した。  菜穂美はこの前会った時より、少々華美な服装をしていると碧は思った。笑った薄い紅鮭色の口紅が、白い肌の上に自然で綺麗である。オーダーメイド一着六十万円のイタリア製の水色のシャツドレスは、婦人服というカテゴリでありながら、あの奇妙な格調高さや古臭さを感じさせない刺繍やアルファベットの金字の文字列を象ったベルトがそれほど過剰でなくモダンな印象である。  再会したリゾートの景観は壮大である。人工的な美景が、たしかにそこに、東京湾に打ち寄せる海の音に晒されている。  菜穂美の両親が得た堅い資産とは、このようなリゾート業やレジャー業の関連株式である。これに関する株主優待だけでも、家族だけでは既に有り余るほどであったが、確かに数年前に流行した海外製のウイルス感染症のときは、少々痛手を受けた。それでもこの海浜リゾートは、何事もなかったかのように再び客足を取り戻し始め、今や碧も菜穂美もまたそのうちに取り込まれ、ショーケースの中の夢の最中である。  菜穂美の方も、初めて会った夜に心を奪われてしまった青年と昼に再び(まみ)えると、その明らかな美貌にまた比類なく感激し直したが、しかし彼女の貴族的な好奇心は、彼女の夫婦生活の疲弊や、彼女の少し時期尚早な閉経のような、いくつかの出来事と紐帯(ちゅうたい)し、目前の芸術品のような青年に対して、ある不明な欲求をかきたてた。つまり菜穂美の抱いた興味とは次のようなものである。 『彼はこれまで何人もの女と会い、そしておそらく買われてきた。紀子の説明では、あのサイトは実はそういう危険なサイトだった。なら逆に、彼は女を買うという行為についてどう考えるのだろう。少なくとも、私が今考えていることは、それは自分でも本当に理解不可能なことだけど、私は今彼のような人に買われてみたいのだ』  自分自身の現実的な視点を疑わない方々には、かくも非現実的なことのように思われるかもしれないが、しかしこういう様々な稀有な条件が揃った状況で、男が女を買うという行為は既に怪奇な現象にも近い。  碧の性格、病、社会的現実、その全てが揃いも揃って自分自身を売りに出さねば存続不可な事態にあったのだ。だから何かを買うというような行為は彼の理外へに置かれていたので、こういう菜穂美の発想は、寧ろ碧には願ってもない青天の霹靂(へきれき)であった。  菜穂美はそして、あらゆることに恵まれてきた人生に一つ二つ蹴りが付いた自分の現在地の、新しい人間的体験の目印としての最初の経験に、自分自身を売ってみようという危険な行為を選び、あまつさえなんらかの未知な享楽の兆しを見出したのかもしれなかったのである。  しかも菜穂美は、単に碧に金銭的に買われるのではなく、非物理的な方法によって、碧に自分を買わせたいと考えた。このためならどんな努力も惜しまない自信が菜穂美にはある。  菜穂美は今確実に不倫に身を置いているのに、こういう自信のためか非常に落ち着き払っている自分が面白かった。
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