第十三章

6/8
前へ
/79ページ
次へ
 リゾートホテルの四十九階に上がったアジアンビュッフェレストランのオーシャンビュー席は、晴れやかな海浜公園と東京湾を見下ろすには見晴らしがよかった。  この地上五十階180メートルの天へ衝き出た高層ホテルには、客室だけで二千室、レストランだけで十三店、大浴場だけで三場あり、夏季限定の大型プールも一つ有るが、どうして展望台が無いのだろう、もし旅行客が一人でここに泊まりに来ていたら、何の説明もない景色を見るのはつまらないだろう、それにこれだけ施設が沢山付いているんだから、展望台の一つくらい付けてもどうせ困らないだろうに、と碧は思った。  が、それが寧ろ今の碧には好都合に働いた。出不精で興味も無いため、街の景色のことなど一つも知らない碧は、展望台が無いおかげで、菜穂美との会話の隙間にその景色の説明を逐一求め、二人の密会をより豊かにすることが出来たのである。  こうして意想外にも、海浜の風景を肴に二人はかなり諧和(かいわ)し、談笑は弾んだ。普通その世界の住人の誰もが両方とも知っているはずなのに、碧は夜の世界のことを知る前にまず昼の世界を満足に知らなかったが、そんな世間知らずな自分が分かると、碧は急に自分が幼稚な子供に戻った気がした。  それこそ何の輝きも知らなかった幼年時代を取り戻そうという碧の聖地奪還の意志が、菜穂美にはどこか新鮮に感じ、碧の態度や素振りの一通りを興味津々で若々しく美しい活力を持した様子に見せたらしかった。  レストランの開放的な窓際から見える方々の景色を、碧に尋ねられるままつぶさに教えてから、教える側の言い知れない征服感か支配感に気が良くなった菜穂美は、碧に自分の本名を隠さず教えた。碧もどうせもう使うことは無いから、偽名を捨てて本名を教えた。それで二人は、改めて自分の実生活についても簡単に取り上げ始めて、下らない話をいくつかして盛り上がった。  二人の会話は幾つかの壮麗な山脈を越え、遂に重要な地点へ踏み入ったとき、壮大な天空に雷雲の近づく模様があった。 「佐藤君はおいくつ?」 「二十三です」 「若いわね。私はもう五十目前のおばさんよ」 「とても信じられません」 「お世辞は良くてよ。それで碧くんはどうしてこんな、言っちゃえば自分を売るような真似をしてるの? 私最初は知らなかったんだけど、あれはそういうサイトなんでしょう?」 「ええ。そうです。でも実のところ、あんまりよく考えずに始めたんですよ。ただきっかけは有ります。この前菜穂美さんに言われたように、自分にはそれに見合う美貌があると言われたんです。それが気になって。何でもいいから自分にできることをしてみたかったのかもしれない」 「そんな考えは駄目よ。自分を安売りしちゃ駄目」 「でも菜穂美さんは知っているはずだ。あのサイトは本来菜穂美さんのような普通の人が使うサイトじゃない。僕は精神障害なんです。僕みたいな人間は、社会の中で普通の生き方はできない」 「仮にそうだとしても、私、無責任に言ってるわけじゃなくてよ。精神障害は専門じゃないけど、これでも私医者なの。あなたは自分のことをどう思ってるか分からないけれど、そういう言い方はあなたのために良くないわ」 「じゃあ僕はどうすればいいんです」 「そう機嫌を悪くしないで、お聞きになって。あなたは自分の美しさの価値を理解していないの。けれどそれも自然なことなのよ。他人の才能を見抜くのは造作もないことだけれど、自分自身の才能を見抜くのには難攻不落の城砦を一つ二つ落とすくらいじゃ全く足りないのだから」
/79ページ

最初のコメントを投稿しよう!

19人が本棚に入れています
本棚に追加