第三章

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「佐藤碧さん」と、第二診察室の扉が内側から開かれた。碧は(すく)み上がった。いつもの白衣を着た主治医が、なんの感情も芽生えない魚のような目でこちらを窺っている。  主治医の松田は「どうぞ」と目配せして碧を案内した。碧は立ち上がって、もう一人の無言の自分をそこに置き去りにして診察室へ入った。  碧の検診はつつがなく済んだ。長すぎた待ち時間には見合わぬ簡短さで、主治医の松田の検診はいつもきまって、「最近はどう過ごされていますか?」という問いかけに始まり、碧が一言二言呟くと、「それは良かったです」と笑って、ものの五分もしないうちに終わってしまう。  いくら検診とはいえ恐ろしいほど中身が無いので、碧は分かっていてもいつも吃驚(びっくり)させられる。認知症の老人でさえもっと感情的だと碧はいつも思うのである。  それから話題は碧の服用している六種類の(以前から三つ減った)薬剤の服用状況へ転ずる。「今月の分は足りていますか?」という主治医の問いかけには、「はい足りています」か、「いいえ、足りていないので出してもらえるとありがたいです」のどちらかの解答しか選ばれない。  このような退屈な検診がもう半年続いている。社会の枠組みに仕込まれた医療行為は、正確な解法を欠いているように思われる。社会はまるで、いつまで考えても解くことのできない方程式のようである。  今月分の処方の会計時に、来月末に障害者医療支援の期限が切れるから、役所で更新手続きをするようにと伝えられた。精神障害者の生活は面倒と不安に事欠かないことだけは、立派に忙しく思える。 心療内科の黒い街ビルがあるのは、JR、S本線C駅のバスロータリーのすぐである。今日の診察が終わったのは夕方五時を過ぎた頃である。碧がかかりつけ薬局で処方薬を買い終えて出てくると、ロータリーは帰宅途中の会社員や学生が既に雑沓して多かった。  碧は雑沓を避けて遠回りして、駅舎へ繋がる歩道橋の階段を上る。上った先に、滲んだ夕焼け空が描かれている。果てなく続いている紅鮭色のうろこ雲のこの上ない憂愁が、碧を美しい孤独な彫像にした。また雨上がりのときなどは、碧はこの小高い陸橋を、まるで虹の上を歩いているかのように感じるのである。  それなのに碧はどんな時でも頭に重い霧がかかって冴えなかった。碧は人波には監視カメラを備えたブイが無数に漂泊していると感じる。対向してくるあらゆる顔、無表情の顔、嬉々とした顔、悲しそうな顔、そのどれもから目を背けている間、自分の恐怖が知悉(ちしつ)される気がしてくる。  今も前方を歩くなかには艶やかな黒い頭がある。枯死した白髪がある。見事な禿げ頭がある。その一つ一つが、碧の白々しい無関心を睨みつけているようで落ち着かない。  よく注意していなければ、碧は歩道橋の上から線路の底へ真っ逆さまに落下してしまうような気がする。ともすれば虹の上を歩こうとするのは、薄氷の上を歩こうとするのと大差ない。  薄氷を歩く人生には、必ず堅固な救いが無ければならない。たとえ薄氷が踏み割られても、氷点下の水からその身体を引き揚げてやらねばならない。しかしこのような救済を数少ない偶然の中に見出せたことは、碧のささやかな幸運である。  碧は自分の幸運を改札口の向こうに見出した。彼女もまた、改札口のこちら側に、碧を見出して手を振っていた。こういう一瞬、ふと気が緩んだときに碧が何気なく見せる自然な微笑は、例えようもなく美しい。
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