第十三章

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 菜穂美にはこういう急な話題の逸脱は、同じ歳映え同士なら些細な冗談の一つくらいにはなると思えたが、碧と自分のような母親と息子くらい歳の離れた者同士の間では、切実な哀訴か説得のようにも感じ、自分が(ことごと)く美青年の遥か遠くから話をしているような気がして辛かったが、こうすることでどうすれば碧が、彼の知っている方法以外に自分と寝てくれるか、真剣に図っていたのである。 「私にはあなたの今までの経歴や境遇は分からないから、敢えて触れないでおくわ。けれど少なくとも、私もあなたも同じ人間で、違う個人だから、少しぐらいあなたの人生にお節介をしてもよろしいでしょう。まず佐藤君は、私たちの世界では恐ろしい存在なの。それは貴方が美しいからよ。あなたの美しさはただの美しさじゃない。最近の商業主義的な美貌とか、ルッキズムという言葉に代表される程度の、下品で低級な美貌とはかけ離れたもの、つまり恐怖のようなものよ。  鏡をよく御覧なさい。男の人たちは毎朝髭を剃る時くらいしか自分の顔を見ないからよく分からないでしょうけど、私たち女は、あなたの顔を見てしまうと、もう二度と鏡を見たくなくなるわ。あなたは鏡のこちら側の存在でなくて、鏡の向こう側の存在なの。だからこそあなたは、自分の美しさを、向こうの世界に隠してしまっているだけ。でもそれは凄く不幸で恐ろしいことよ。寝ている間に死んでしまう夢を見るくらい、不幸で恐ろしいこと。あなたは夢を見るかしら。私は少なくとも、あなたと出会ったそのときからずっとまだ夢の中にいるみたいよ。この夢がたとえ悪夢だとしても覚めないでほしいと思う。あなたのような美しい人は、それくらい誰かを恐れさせ、悩まし、時に救う、いわば美の化身、美の神の現身(うつしみ)なのよ。あなたの不幸は、女神様は本来、美しい女に宿るべきなのに、あなたのような美しい男に宿ってしまったことよ。  ほら、あの海と空を御覧なさい。もうじき夕日が出ると、もっと美しくなるわ。でも海も空も、決して私たちに話しかけはしない。けれどあなたは、あの海や空のように美しいのに、私たちと話すことが出来るからなお恐ろしいし、それだから何か試みたくなるのよ。ただどれだけ海や空が美しくても、それを見る側が分かろうとしなければ、陸の彼方に隠れている美しさは決して自覚されない。あなたの美しさはそういう美しさなの。  あなたのその、深い瞑想の中にいるような、心の暗がりの(かげ)った横顔すら、私にはよそにはない美しさを感じるわ。じっと見つめていたくなるくらい。ああもしかしたら、あなたはいつでも誰かに監視されていると感じることがあるかも知れない。でもそれは決して単なる思い込みなんかじゃないわ。あなたの中のもう一人の美しいあなたが、あなたが誰かに恐れられていることを、そういう遠まわしな方法であなたに伝えようとしているの。じゃああなたが何をすればいいかなんて、簡単なことよ。あなたはこれから女や私を抱くんじゃなくて、自信を持って、あなたともう一人のあなた自身を一度に抱けばいいの。それがあなた自身を唯一許す方法。あなたには間違いなくその資格がある。あなたはこれだけ私が言葉を尽くしても全然言い表せないくらい、美しいわ」  碧は終始、耽るように菜穂美の言葉を黙って聞いていた。いつからか手の中に隠していたあの精力剤は、固く握られ続けたために湿気って、使い物にならなそうである。そうして、碧の心には、或る確かな、酩酊(めいてい)のような温かい歓びが満ち溢れてくるような気がした。碧は黙ったまま、その実感をずっとまだ掴めずにいて、もう少しで掴めそうだったのである。  それから二人は時間早めに菜穂美の取った客室へ行った。二人の睦まじい幸福な夢のような時間には、煩わしい言葉や道具の一つとて要しなかった。
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